魔王と少年 | ナノ




 些細なことで喧嘩して弟を殴ってしまった。少年は軽い冗談のつもりだったのだ。しかし殴られた弟の顔には傷ができてしまい、それを嘆いた母は傷を作った張本人の少年をひどく罵った。まだ幼い少年にとって、あまりにも辛辣な母の言葉は容赦なく心を抉った。こんな化け物みたいな力を持って生まれたから実の親にも愛されないのだ。自分は必要とされていないのだ。弟さえいればたぶんそれでいいのだ。
 悔しくて悲しくて苦しくて辛くて少年は家を飛び出し無我夢中で走る。涙が止まらなかった。あたりはすっかり暗くなりはじめていて家々からは楽しそうな家族の談笑が聞こえてきたが、少年はもうあの家に帰ろうとは思わなかった。そうして弟といつも遊びにきている公園に辿り着いた少年は、自分のお気に入りのブランコに黒い影が腰かけているのを見つけてはたと立ち竦む。

「こんばんは」
「……だれだ、あんた」
「知らない人にでも挨拶くらいちゃんとしなきゃダメだよ。静雄くん」

 お母さんに教えてもらわなかった? こちらを振り返って笑うそれを見て少年は、以前母に読み聞かせてもらった絵本から悪者の魔王が飛び出してきたのかと錯覚した。頭の天辺から足の先までどこまでも黒いその姿は夕闇に溶け込んで周囲と一体化している。普段の少年ならば怖いと思ったかもしれない。けれど今、深く心に傷を負った少年の瞳には、目の前の魔王さえも美しく神秘的に映って見えた。だからなぜ魔王が自分の名前を知っているのかたいして気にすることもなく、恐る恐る近づいていく。
 魔王は若い男だった。しかし白く滑らかな肌をして柔らかく微笑む様子はまるで女のようにも見える。その魔王の黒一色の世界で爛々と光り輝く紅い眼に囚われてしまったことに少年はいまだ気づいてはいない。一歩、また一歩と足を踏み出していく。やがてブランコに座る魔王と立ったままの少年の視線が静かに絡み合った。

「ああ、俺の名前はオリハライザヤ。でも静雄くんにはにーに、って呼んでほしいな」
「……にーに?」
「うん、そう。よろしくね、シズちゃん」

 見れば見るほど妖しさを増す魔王にさすがの少年も不信感を募らせはじめる。いつの間にかシズちゃん、だなんて誰にも呼ばれたことのない名前で軽々しく呼ばれているし。大体こんな時間に大人が独りで公園のブランコで遊んでいるなんてきっとおかしいことだ。学校で先生が言っていた不審者、というやつかもしれない。
 少年は途端に恐ろしくなった。帰ろう。もう暗いし、怒っていた母も今は自分のことを心配しているかもしれない。弟だって兄である自分の帰りを待っているかもしれない。それは都合のよすぎる解釈でしかなかったが、少年はまだ子どもで難しいことはよくわからないのだ。先ほどとは反対に一歩ずつ、ゆっくりと後ずさっていく。すると魔王の紅い眼がすっと僅かに細められた。

「どこに行くの?」
「う、うちにかえる」
「アハハ、シズちゃんに帰るおうちなんてないでしょ」

 立ち上がった魔王の黒いコートがばさばさと強風に煽られ、同時に空になったブランコがギイギイと軋みながら上下に揺れる。感情の籠らない冷たい瞳で見下され、少年は反論することも動くこともできずその場で固まった。足が地面に糸で縫いつけられたような気持ちの悪い感覚。かと思えば胸のあたりまで抱き上げられ、ざらついた舌で唐突にべろりと頬を舐められた。つう、と嫌な汗が少年の背中を伝う。あ。蚊の哭くようなか細い声が一瞬だけ空気を震わせるが、もはやそれは無意味な行動でしかなかった。

「にーにのおうちに行こう」
「…………、」
「にーにはシズちゃんを傷つけたりしないよ。たくさん可愛がって、たくさん愛してあげる。絶対に泣かせたりなんてしない。だから、ね」

 少年は何もできなかった。ただ細い四肢をぶらんと垂らしたまま、魔王に呪われてしまったかのごとく。



 翌日になっても少年は帰ってこなかった。叱り飛ばされた少年がひどく心を痛めていたことにも気づかないまま、母は警察に捜索願を出した。新聞やテレビを主体としたマスコミ各社も誘拐事件として報じ、犯人逮捕の協力を人々に呼びかけた。しかしもう少年があの家に戻ることは二度とないのだ。絵本の中の魔王に攫われた少年が現実世界に戻ることなど、もう二度と。



魔王と少年

(100513)
提出:にーにアンソロ





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