すれ違いの僕ら | ナノ




 その日、ついにオレは黄瀬の色白い頬を力いっぱい殴りつけてしまった。
 衝撃を受け止めきれず地面に崩れ落ちるその姿を見ても、不思議と後悔も罪悪感も浮かばないのは、よく考えてみれば当然のことであったのかもしれない。本当は一発で済ませられるような話ではなかった。こいつは叱られなければ理解できないガキと一緒だし、オレに叱ってもらえるという強い甘えを抱いている。そんなものは幻想だと、何より思い知らせてやりたかった。
 殴られた部分を片手で押さえて黙り込む黄瀬の身体は、バスケで鍛え抜かれたとは思えないほどにしなやかで美しい。が、骨の一本でも折れてしまえばよかったのに、オレは心のどこかでそんな最低なことを考えていたりもした。
 今年に入り、テツ、それに火神という期待の大型ルーキーを新たに迎え入れた誠凛高校も難なく撃破した試合後、またこの馬鹿が何かしでかさないうちにオレはさっさと引き上げようと思っていたのに。腕を引こうと手を伸ばしたときにはすでにそこに黄瀬の姿はなく、それより少し離れた場所で、あいつがテツに何か吹き込んでいる姿が見えた。
 あの時、滅多に感情を表に出さない元相棒の、絶望したような表情を目の当たりにして、オレは、そもそも黄瀬をこの場に連れてきたことを悔やんだのだった。だからこれは当然の罰だ。少なくとも、オレの目の届く場所でテツに危害を加えたこいつを、どうしても許すことはできなかった。

「痛いっスよ、青峰っち」
「……お前、自分がなんで殴られたのかわかってんのか」
「さぁ、……大体理解はしてるつもりっスけど。でもオレ、何も悪いことしてないっスよ。黒子っちが一人じゃ何もできない弱い人間だなんて周知の事実だし、その彼が必死に縋ってた青峰っちはもうオレのなんだって、ありのままの現実を思い知らせてやっただけだし。むしろ同情してやったんスから、感謝してほしいくらいなのに」
「それ以上喋ったらもう一発殴る、黙ってろ」

 黄瀬の口からとめどなく吐き出される嫌悪感に満ち溢れた呪いの言葉に、思わず耳を塞ぎたくなる。だが、それは敗北を意味することだし、何よりこいつの思う壺でしかないことを知って、一言灸を据えたオレはそれきり黄瀬を睨みつけることしかしなかった。
 我ながらよくここまで自制できているとは思う。相手がこいつでなければ、オレはとうに理性を失ってもう二発、いや、三発くらいは叩き込んでいるところだろう。それで済めばまだいい話で、つまり何が言いたいかといえば、逆に黄瀬だからこそ、オレは我慢ができているのだと、唐突に理解した。
 こいつは事の良し悪しもわからない、純粋ゆえに残酷な子供であり、こうして言い聞かせることでようやく学習することができる、ひどく面倒な生き物だ。悪い、の一言で済ませられる話でないことは百も承知だったが、それでも不思議そうに首を傾げているこいつには、理解させてやらねばならない。
 罵倒された相手がテツだから余計に、というのもある。やはり、どうあってもオレにとってあの影の存在は、今のオレ自身が在るために必要不可欠であったし、それ以上に大切で、同時に壊れやすいものでもあった。だからこそ、黄瀬みたいなやつに傷つけられたことが悔しかったし、守れなかった自分を不甲斐なくも思った。テツのことだ、黄瀬がどうしようもなく壊れてしまった事実は理解しているのだろうが、それでも。オレの気が収まらないのだから、あいつが何と言おうと関係はない。
 あらためて眼下の黄瀬に怒りを込めた視線をやり、オレは未だ立ち尽くしたままだ。しばらく無言を貫き通していた黄瀬は、赤く腫れ上がった自らの頬を撫で、ああ、呆れたような溜息を吐き出した。そうしてようやく顔を上げた黄瀬の、こちらに向けられた、まるでつまらないものを見るかのような冷たい目に、オレの心臓は確かに射抜かれたかのような衝撃を受けていた。

「青峰っちさ、それ、正義の味方でも気取ってるつもり? 弱い者いじめは許しませんって? ハッキリ言ってキモチワルイっスよ」
「んだと、……」
「オレ、アンタのこと大好きだけど、そういうとこは大ッ嫌い。反吐が出るってこういうことを言うんスかねー……ま、何にせよ、今マジで腸が煮えくり返りそうなんスわ」

 ふらふらと立ち上がり、普段よりもいくらか声のトーンを落として囁く黄瀬の言葉に、思わず息を呑んでしまうのも仕方のないことであった。今年で三年目の付き合いになるオレでさえ、こいつが何に喜び、何に涙し、何に怒るのか、そのメカニズムがまるで理解できていない。それほどに黄瀬の精神状態は常に不安定だったし、だからこそ、一人にしておくことはできなかった。
 こいつを野放しにしておけば、関わった人間はただの一人の例外もなく傷つけられてしまうだろう。ならば、傷つくのはオレ一人でいいと、そう、自己犠牲の道を歩む決意を固めたのはいつの日の話だったか。
 オレは失念していた。黄瀬に、物事を理解させることなど到底出来はしないのだ。この馬鹿はいつだってオレのことしか見えていなくて、それ以上に、自分のことしか見えていないのだから。たとえ相手がオレであろうと、自分が正しいと思うこと以外に、黙って首を縦に振るはずもない。この狂犬は、オレですら手に余る野生の狂気でしかない。
 直後、歩み寄ってきた黄瀬が、驚くほどの速さで腹に突き入れてきた拳の威力に、胃の中のものをすべて吐き出しそうになるのを必死で堪え、オレはその場に膝をついた。痛みよりも恐怖が先行することには、もうすっかり慣れてしまっていた。

「……もう、オレに説教すんのやめてくんないっスか? 次、こういうことされたらオレも何するかわかんないし」
「っ、……ぐ、……ぁ」
「あ、ごめんね、痛かった? ……ん、今度はちゃんとやさしくするから安心してほしいっス。……大好きだよ、青峰っち」

 だからオレだけを見ててほしいな、耳元で囁かれたうわべだけの甘い言葉に、オレの脳髄はじわじわと溶かされていく。取り返しがつかないところまできているだなんて、随分前からわかっていたことのはずなのに、なぜか無性に哀しくなった。
 具体的な解決案など、ないに等しい。あの頃の黄瀬は戻ってはこないし、ならばオレも、そこまで堕ちていくしかないのだろうか。そんなことを考えはじめた、初夏の出来事であった。熱に浮かされたように揺れていた琥珀色の瞳が、いつまでも頭の奥にこびりついて離れない。



(120725)





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