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#帝光時代



 試合が始まる直前、控え室にて。一人いつまでもベンチに腰掛けたまま、己の左手を神妙な面持ちで眺めている緑間を見かけるのは、もはや恒例行事となりつつある。しゅるしゅると音を立てて外されていくまっさらなテーピングは、そのまま床へと落下していき、誰の手にも渡ることはない。しっかりと覆われていた彼の、露わになった指先はまるで白魚のようでもあり、見ている者の視線を一瞬で奪うだけの魅力を十分に醸し出していた。
 いつも、そうした試合前における緑間の一連の動作を見守る役に徹している黄瀬は、やはり今日も壁に背を預け、ぼんやりとそれを観察している。見られていると気が散ると言って、何度か注意を受けたものの、彼にとってはもはやそれが習慣化してしまっているようで、実際は何を言ったところで無駄であった。黄瀬は黙ったまま、息をしているのかすら定かではないほどの静寂を保ち続け、やがて深い息を吐き出す。その瞳でつい今しがたまで捉えていたものから一度ゆっくりと視線を外し、呼吸を整えてふたたび向き直る。
 緑間からしてみれば、黄瀬の行動はどうあっても理解しがたいものであった。こんなものを見たところで一体何が面白いのだろうと、浮かび上がる疑問は尽きることなく。だが、投げかけても彼の望むような返答は期待できなかったし、そのまま放置しておくのが最善の対処法であることに違いはなかった。

「……見せて」
「……爪の手入れはいつもどおり完璧なのだよ。オレは常に人事を尽くしているからな」
「そんなのわかってるっスよ。だから見せてほしいってこと」

 また意味のわからないことをぽつりと呟いて、壁側から離れた黄瀬は、いまだに腰を下ろした体勢から一歩も動いていない緑間の前まで歩み出ると、床に膝をついて身を屈めた。それはまるで、姫に忠誠を誓う騎士のように。恭しく左手を持ち上げると、解放された爪の上に軽く唇を押しつける。しかし、これだけで事が済むとは到底思ってなどいない。触れては離れ、その動きを何度か繰り返していた黄瀬であったが、緑間が黙りこくってそれを容認したのをいいことに、軽く口を開けて己の口内へとそれを招き入れたのだ。びくん、肩が跳ねて背中を冷や汗が伝う。
 この感覚を知らないわけではない。いつの頃からか、黄瀬はこうして緑間の繊細な指先を意のままに弄ぶことを趣味としはじめたわけで、今では試合前に行われるちょっとした儀式のようなもの、と称するに相応しい行為にすらなりつつあるのだから。無論、緑間がそれを許可したことなど一度もない。吸い寄せられるように近づいてきた黄瀬が勝手にやっていることだと、彼の中ではそういった認識でしかない。実際、非合意に基づいた戯れに、何の感慨も思い浮かぶことはないのだ。
 指の皮がふやけてしまうまで、とは言わないが、それでも随分と長いこと、己の指先を舌で愛撫する黄瀬の表情を窺ったところで、特別な感情を抱くこともない。ただ、拒絶するだけの明確な理由も見つからないので、好きにさせている。それだけの話なのだろう。

「……ね、緑間っち……すごい気持ちよさそうな顔してるっスよ」
「ば、かな……ことを、言うな」
「そんな物欲しそうな目しちゃって、ダメじゃないっスか」

 オレのこと駄犬とか呼べるような立場じゃないでしょそれ、くすくすと含み笑いを溢しながら、舌の動きは止めてやらない。黄瀬には一切の容赦などなかった。知らないふりをして、気付かないふりをして、それでも腹の底から沸々と湧き上がってくる快感を無視できずに虚勢ばかり張る緑間をからかうのが、何だか楽しくてたまらなくて。
 彼にはわかっている。爪と皮膚の間に舌先を捻じ込まれた時に見せる、緑間の苦悶に歪む表情と、思わず零れ出る喘ぎ声の理由が。その証拠に、あの日から緑間は黄瀬を拒絶することをやめた。受け入れているわけではない、本人は冷静に否定しているものの、それが咄嗟に思いついた頭の悪い言い訳に過ぎないと、こちらが理解していないとでも思っているのだろうか。成績はいいくせにあと一歩のところで及ばないのは、それが大いに影響しているに違いないのだと、ひっそり黄瀬は思う。
 柔らかい指の腹を舌で擦り、軽く歯を立てても緑間の口から罵声が飛んでくることはなかった。紅潮して恍惚とした表情と、熱に浮かされたように潤んだ瞳とが指し示すところの意味など、一つしかない。

「ほら、そろそろ行かないと。みんな待ってるっスよ」
「……、あ……」
「だぁいじょうぶ。試合が終わったら緑間っちの欲しがってるもの、いくらでもあげるから、ね……」

 咥えていた指を離し、ぐい、顔を近付けて言い聞かせるよう、まるで上の空の緑間へと囁きかけた。それが悪魔の甘い言葉だと知ってなお、微かに頷いて呼吸を落ち着けている自分は何なのかと、たまに緑間は考える。我慢できないのはお互い様でしょ、そんな一言で片付けられるほど簡単なことではないのに。残念ながら今は、目前に控える試合のために、どうにかして気持ちを切り替えることに集中しなければならない。



(120622)





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