自慢の嫁を紹介します | ナノ




 玄関のドアを開けた瞬間に、今まさに出来上がったばかりの夕飯を知らせる仄かな香りが嗅覚を刺激してくれるのは、非常にありがたいことであると思う。授業もさぼり、放課後の練習にも大して顔を出さない彼だが、何を隠そう、今をときめく思春期真っ盛りの男子高校生だ。それに、腹が減っては戦はできぬとも言う。蓄えは多いに越したことはないのである、というのが青峰の持論であった。
 ただいまー、革靴を放り投げるように脱ぎ捨て、リビングまで伸びる廊下をぺたぺたと歩いていく。キッチンへと立ち、鍋の中のスープを掬って味見をしていた人物は、そこでやっと同居人が帰宅したことに気づいたのか。おお、おかえり、顔を上げていつも通りの屈託のない無邪気な笑みを見せた。

「何作ってんの?」
「んー、ロールキャベツ。今日は野菜の特売日だったからな」
「……火神、お前ほんといい嫁になるぜ」
「うっせーよ! 誰が嫁だ、誰が」

 素早く歩み寄ってきて隣に並び、自然な仕草で火神の手からスプーンを奪い取った青峰は、一口飲み干すと、神妙な面持ちで頷いてそう言う。そんな、今ではもう随分と聞き飽きてしまった戯言相手に、いちいち頬を赤らめて反論する火神を観察するのも、忘れてはならない青峰の日課だ。
 そうこうしているうちにキッチンから追い出され、さっさと着替えて手伝え、などと言われるものだから、すごすごとその場を後にするしかない。天上天下唯我独尊の青峰といえど、どうやら家主にだけは逆らうことが出来ないらしかった。





 今の現状に至るまでに、きっかけとなる出来事があったかと言われると、それはどうだっただろう。
 違う高校に通う彼らではあったが、互いの強さに触発されて以来、たまに顔を突き合わせれば本気でボールの奪い合い、といった流れになるのも自然なことではあった。その日も確か、陽が沈むまで狭いコートをひたすらに駆け回り、汗を流して、彼らの愛してやまないバスケに息を弾ませていた気がする。
 気づけば寮の門限をとっくに過ぎており、また何かしらのお咎めを食らうことを面倒に思った青峰が、何を考えたか、高校生にして一人暮らしを満喫している火神の元へ押しかけた、言ってしまえばきっとそれだけの話だ。火神の方もそれをさほど迷惑には思わなかったようで、何だかんだと家に招き入れてしまい、そうした状況が今までずっと続いている、つまりはそういうことである。
 もちろん、ここまでの想定はしていなかった。一晩泊まれば満足して帰っていくだろうと、完全に思い込むのも当然の心理であり、だがしかし、翌日学校から帰宅してみると、そこには堂々とソファで寛ぐ青峰の姿があったのだから、火神はもう何も言えなくなってしまったのだ。おまけに彼の手には、いつの間に作ったのか、しっかりと合鍵が握られており、そうして追い返す機会は永遠に失われた、というわけである。
 とはいえ、当初こそ毎日のように口煩く、いつになったら帰るんだよ、些細な愚痴も零していたものだが、今では青峰がこの家に居座っていることに安心感を得てしまうほどには、火神も奇妙な同居生活を気に入っていたりする。いただきます、二人同時に手を合わせ、テレビのチャンネルを回しながら夕飯にありつく、たったそれだけのことが。一人きりでは広すぎた家と、ぽっかり穴の開いた心の隙間を埋めてくれる事実に、本当は感謝しているなど、口が裂けても言えないけれど。

「なあ、火神」
「ポテチならねえぞ」

 食事を終えると途端に定位置であるソファに転がり出す自分のことは無視して、どこぞの主婦よろしくせっせと後片付けを始める火神を見ていると、何となく母親の後ろ姿を思い出してしまうのは、ごく自然なことなのであろう。まったく、同い年とはとても思えない。ずぼらな青峰からしてみれば、火神は本当によく動く。一人分も二人分も大して変わらないとは言うが、食事から洗濯まで、ここのところ何かと世話になりっぱなしだ。
 たまには気遣って日頃の感謝でもしてやりたいとは思うものの、自分がそのような柄ではないことを誰よりも理解しているだけあって、なかなか行動には移せない。それに、甘やかされれば甘えてしまうのは人間の深層心理でもあるわけで、つまるところわかりやすく言えば、青峰は尽くすより尽くされたいタイプの人種なのである。

「チッ、ねえのかよ……って、そうじゃなくて! ……膝枕」
「……はあ? 何言ってんだ、このアホ峰。寝言は寝て言え」
「黙ってろバ火神。いいから膝貸せって言ってんだよ、減るもんじゃねえだろ」
「枕が欲しいんならそこにあるクッションでも使え。もしくはさっさと布団に行け」

 使用済の食器を洗いながら怠そうに声だけをこちらへ投げかけてくる火神の表情は、この場所からでは窺い知ることは出来ない。だが、心底面倒だと溜息でも吐いているのだろう。青峰の、よくわからない唐突なわがままを聞かされるのは今に始まったことではないが、極力関わりたくないと思っているのはどうやら確からしかった。
 いつも気乗りしない火神を強引に付き合わせるのは、彼の特技といっても過言ではないのだ。しかし、迷惑だと思われているのを承知でそれを止めないのも、元来の底意地の悪さが祟ってのこと。軽くあしらわれようと、一度や二度で諦めるはずもない。
 洗い物を済ませてリビングへ戻ってきた火神からテレビのリモコンを引っ手繰ると、上体を起こした青峰は、真正面からぐいと顔を近付けて迫った。

「人がオネガイしてるんだから聞いてくれてもいいだろ? 火神くぅん?」
「あのな……じゃあ聞くけど、お前、こんなごつい男の膝を枕にしたいとか本気で思ってんのか?」
「純粋に興味があんだよ。男の膝枕なんてそうそう体験できるもんじゃねえだろ。だからほら、ここ座れ」

 ぽんぽん、青峰が我が物顔で自分の隣の空間を叩いて無言で促せば、火神は深々と嘆息しつつもそこへあっさりと腰を下ろした。嫌ならそうやって従わなければ回避のしようもあるだろうに。思いつつ、そうしないのが彼の捨てきれない甘さなのだろうかと、ごろり、横になって、筋肉質で固められた腿の上に頭を乗せた。
 なるほど、驚くほど居心地は悪い。予想はしていたが、まるで巨大な石を枕にしているかのような感覚に、思わず笑いが込み上げてくる。そうして何やら楽しそうに肩を揺らす青峰に、火神の枝分かれした眉がへそを曲げたように寄せられた。わざわざ頼まれたから聞き入れてやったというのに、こんな反応をされては彼とて黙ってはいられないだろう。今にも青峰の頭を撥ね退け、立ち上がりそうな勢いの火神に、当の本人は笑いが止まらない様子ではあったのだが。

「ハハハ、悪い悪い! 怒るなって、」
「……テメエ、振り落とすぞ」

 ぎろり、鋭い眼光で睨まれたのにも物怖じ一つせず、青峰はふと長い腕を伸ばして火神のシャツの胸元を掴んで力任せに引いてやった。予期せぬ方向からの引力に為すがまま、少しだけ頭を持ち上げた青峰のそれと唇がぶつかる。驚きのあまり声も失って、しかし何か言わずにはいられないのか、火神の喉の奥から声にならない声がせり上がってくるのを、色黒の少年は面白いものを見るかのような目で観察した。
 緩やかに流れていく時間はあまりにも生温くて、けれどそれは決して、試合の中では手に入れられない安穏で。

「で、それ、誘ってるって解釈で間違ってねえよな?」

 それでいて、スリルに満ち溢れている。



(120622)





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