レイニーブルー、もしくはイエロー | ナノ




#帝光時代



 六月も中旬を迎え、先日梅雨入りを果たしたらしい関東地方は、今日も絶賛雨日和だ。ざあざあと空から降り注いで、窓を打つ滝のような水滴を横目に、日直である緑間は、静寂に包まれた教室で学級日誌と睨めっこをしている。時を刻む針の音は、早く家に帰りたくて仕方がない彼の集中力を無慈悲にも奪っていく。
 そもそも、今日だって放課後は体育館で練習がある予定で、チームメイトの誰より生真面目な緑間が、それを好んでボイコットするはずなどなかったのに。他でもないキャプテンの命令ともあれば、いくら彼とて逆らう気にはなれなかったということである。
 憂鬱な表情で項垂れる緑間の、お気に入りのシャープペンを握る手がかたかたと震える。丁寧にテーピングの巻かれた左手はきつく拳を握り、血でも滲み出してきそうなほどに凄みを帯びていた。

「ねえ緑間っちー、まだ終わんないんスかー」
「……、……」
「早くしないと今日が終わっちゃうっスよ、ねえってば」

 言わずもがな、それが緑間を苛立たせている当の元凶の姿である。隣の席から椅子だけを引っ張ってきて肩を並べ、執拗にべたべたとひっついてくる大型犬は、先ほどからずっとこんな調子だ。
 うるさくてたまらないから今日一日くらいは面倒を見てやれ、そう、赤司の口から衝撃的な発言を聞かされたのは今朝のことである。なぜ自分が、なぜ突然、質問を浴びせる隙も与えず背中を向けて去っていった我らがキャプテンを、これほど恨めしく思うこともなく、しかし、だからといって下された決断を覆せるだけの術も権限も持たない緑間のとるべき行動は、やはり一つしかなかった。
 一方の黄瀬はといえば朝からいつも以上にご機嫌な様子で、違うクラスであるにもかかわらず、授業の合間を縫ってわざわざこちらへ足を運んだりと、正直に言って迷惑極まりないばかりであった。緑間とクラスを同じくする青峰は、どんなに追い返されてもめげずに通い詰める黄瀬の姿を、最初の頃こそからかうように鼻で笑っていたが、部活に向かう前には、いよいよ緑間へ憐憫の眼差しを向け、何も言わずにそっと肩を叩いてみせた次第である。
 クラスの女子が自分たちを見て何やら騒いでいる声もひたすらに無視を決め込んでいたのだが、あんまり冷たくされるとオレも怒るっスよ、などと俄かに怒気を孕んだ声色で囁かれた瞬間はさすがに肝が冷えた。これ以上の暴挙に出られる前にどうにかしなくてはならないと、焦った緑間はつい、授業が終わったらいくらでも付き合ってやる、口を滑らせてしまったのだった。
 つまるところ、その結論がこの現状である。自分の発言を今さらになって悔いてみるものの、もう後には退けないところまできてしまった。どうにかして帰ってもらえないものかと、こうしてだらだらと日誌を書き上げるのに時間を費やしてはみるものの、黄瀬はその場を離れようともしない。
 これは、狙いを定めた獲物を逃がさぬよう監視している肉食獣の目だ。しかし、突き刺さるような視線を受けながらも、緑間の苛立ちは募るばかりであり、そろそろこの状況にも我慢がならなくなっていた。

「……黄瀬」
「え? なに?」
「終わるまでもう少し時間がかかりそうだ。先に帰っているのだよ」
「ダメっスよ。今日はオレが緑間っちを好きにできる日なんスから。そっちの言い分には一切耳を傾けないっス」
「何を勝手な……! そんなこと許可した覚えはないのだ、よ」

 これ以上の会話は意味を成さないと踏んだのか、一度強く言い聞かせる必要があると、黄瀬の方を振り向いた緑間は、唐突にぶつかってきた衝撃に面食らって言葉を失った。やけに顔の距離が近い、そう思ったときには既に遅かったのだ。
 触れたのは一瞬。だが、離れたと思ったそれはふたたび吸い付き、突き放そうとした腕は簡単に拘束されてしまう。はじめ、小鳥が啄むようなそれだった幼稚なキスは、唇を抉じ開けられたことにより激しさを増していった。
 歯の裏を舌がなぞってゆくむず痒い、けれど心地のいい感覚。呼吸をする間も与えぬ密かな水面下の攻防は続き、緑間の体力は自然と奪われていく。誰かに見られていたら、ふとよからぬ考えが頭をよぎり、途端に抵抗の色を強めるも、黄瀬の前ではすべてが無駄なことである。自分より些か体格の小さい相手に容易に丸め込まれてしまうというのも、持ち前のプライドの高さが許さない。とはいえ、現実は厳しく、酸素を取り入れるのに必死で他のことにまで手が回らないのが本当のところであった。

「っ、ん、ふ、……き、せ……やめ、……」
「……どうせ無自覚でやってんだろうから言っても無駄だと思うけど、……そういうの、勘弁してほしいっスよ……」

 理性、もたないじゃん、弱々しく呟かれた言葉とともに、ようやく身体が解放される。苦しそうに喘ぎながら肩で息をしていた緑間は、僅かに涙の溜まった睫毛を震わせながらも強気な姿勢で黄瀬を睨みつけた。ぞくぞくと背筋を駆け抜ける昂揚感に表情を綻ばせ、黄瀬はもう一度だけ緑間の濡れた唇を貪る。
 打ちつける雨の音は耳障りで仕方がなかったが、二人きりの秘密を共有するにはちょうどいい。糸を引いて離れていったそれをぼんやりと眺めながら、口元を袖で思いきり拭い、眉間に皺を寄せるその不機嫌そうな顔すら、黄瀬にとっては愛らしく思えるのだ。かといって彼の方も本気で嫌がっているわけではないのだから、可愛げのある生き物だと思う。抵抗されればそれだけ燃え上がってしまうのもまた、情けない男の性ではあるのだけれど。抱き寄せた身体は案外すっぽりとおとなしく腕の中に収まって、やがて身じろぎ一つしなくなった。

「あー、ほんと肌キレイ……すべすべ」
「……おい、気色悪いことを言うな」
「ひどいなあ、褒めてるのに。……食べちゃいたいくらいっス」

 抵抗しないのをいいことに、頬を寄せ、色素の薄い肌を舌で舐め上げる。もぎたての果実であるかのような瑞々しいそれは、男のものとは思えないほどに肌目細かく美しい。黄瀬とて職業柄、自己の身体管理は怠らないようにしており、そんな自身を誇っていたりもするのだが、やはり緑間は先天性の洗練された美しさの持ち主であるらしい。なるほど、それでは悔しいが勝ち目もない気がする。
 これほど美人で気性の荒い相手、というのもなかなかに見つからないので、今、彼を独占している自分は誰より幸せであると自負してもいいかもしれない。かぷり、正面から獣がそうするように首筋にかぶりつき、しっかりと歯形を残す。彼のことだ、甘噛みではきっと物足りないだろうから。そうして何度も。緑間がうんざりした様子で呆れ顔をしつつ、ぐぐぐ、頭を掴んで引き剥がすまでは。

「やめろと言っているのだよ、まったく……これだから駄犬の相手は……」
「……ゴシュジンサマがかまってくれないんじゃ牙も剥きたくなるっスよ」
「……誰も、かまってやらないとは言っていない」

 くい、意味深に中指で眼鏡を持ち上げ、頬を赤らめて緑間は溜息を零した。そう言ってしまった後にまた、言わなければよかった、ひどい後悔の念に襲われながら。
 半ば不貞腐れていた黄瀬の顔は、その言葉を聞くや否や満面の笑みを浮かべ、やがて行き場のない愛情を全身で表現するかのように腕を大きく広げ抱きついてきた。勢いで握っていたシャープペンは緑間の手を離れ、ころころと床に転がっていく。その行く末を視線で辿ろうと思ったところで、黄瀬の指先が伸びて、緑間の顎を捕らえた。
 本日何度目かの口付けは、周囲の時が止まってしまったかのように長く、永遠とも錯覚できるようなそれで。邪魔だからと奪われた眼鏡は彼の右手に、より縮まった距離はもはやゼロに等しい。それでも恐らく自分は満更でもないような表情をしているのだろうと、想像して嫌気が差した。

「ベッドの上ではオレがゴシュジンサマなのに、ねえ、緑間っち」
「……っ、死ね!」
「ちょ、顔だけは! 顔だけはやめて!」

 べちん、容赦なく平手打ちをお見舞いしたところで気が済んだのか、痛みに涙を浮かべる黄瀬のことは無視したまま、奪い返した眼鏡をかけ直した緑間はようやく書きかけの日誌へと向き直る。
 確かに今日くらいは、このどうしようもない男の言うことを聞いてやってもいいだろう。ただし、本当に今日だけだ。明日からはまた、元の関係に戻るのだと。考えつつ、自分たちの関係が出会ってから何一つ変わっていないことに気づいて、緑間はまた頭を抱えた。誕生日だからといって甘やかすとどうせろくなことにはならない、最初から予想は出来たはずだったのに、どうしてこうなったのか。
 懲りずに腰に腕を回し、ちゅう、肌を吸い上げる、盛りのついた犬を横目に、緑間は今日のかに座の運勢が最下位であったことを思い出し、つい心の底から納得してしまった自分を呪わずにはいられなかった。



(120618)
黄瀬様ハッピーバースデー!





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