幸福の定義 | ナノ




「街に繰り出すぞ、時臣」

 珍しくご機嫌な様子のギルガメッシュが、ソファで寛げていた身体を起こし、何でもないことのようにそう提言したのは、今からちょうど一時間ほど前のことになる。
 面食らいつつも、英雄王の言うことは臣下である自分にとって絶対であるため、慌てて身なりを整え、すたすたと先を歩いていく彼の後ろを懸命に辿っていきながら、思う。まるでカルガモの親子のようだ、と。
 そもそも外出するということ自体に慣れていない時臣の足元は危うげで、少しでも急ぎ足になろうものなら、そこらに転がっている小石に躓いて頭から地面に倒れ込んでしまいそうな勢いである。だが、一方のギルガメッシュはといえば、相も変わらずマスターの苦悩など顧みることもなく、我が物顔で久しぶりに吸う街の空気に表情を綻ばせるばかりであった。
 放浪癖のある彼がこうして散策に赴くのは、今に始まったことではない。その上非常にプライドが高く、束縛を嫌うギルガメッシュは、決して行き先を時臣に告げることなく、まるで最初からそこにいなかったかのように簡単に姿を消してしまうのだ。今さら咎めたところでどうなるわけでもなく、否、そうしたところで逆に自分の立場が危うくなってしまう惧れを抱いていた時臣は、自由奔放なサーヴァントの行動をこれまで黙って容認していた。
 なればこそ、今回もまた同様の流れを汲むことに間違いはないと、そう思い込んでいただけに、この展開は彼にとって予想外である。まさかギルガメッシュが、自分を引き連れてわざわざ自らの足で街に向かうなどと。
 明日は雨が降るかもしれない、そんな取り留めもないことを考えながら、冬木市街までやってきた時臣は、前を歩いていた彼が足を止めたのに、ふと気づいて顔を上げた。

「何だ、迎えなら必要ないと言っただろう、綺礼」
「お前の案内では些か心許なかったのでな。……ご無事で何よりです、時臣師」
「え、ああ……綺礼、かい?」
「……? これは失礼しました。街中を出歩くのに僧衣は如何なものかと思いまして」

 やや眉を吊り上げ、不服そうに愚痴を溢すギルガメッシュを淡々とした口調で一蹴する姿は、紛れもない、己の舎弟である。ただ、普段とは異なる服装に身を包んでいたために、時臣は一瞬目を見開き、それが誰であるか認識するのにいくらか時間を要してしまったようだ。
 タイトなスラックスはその長い脚を存分に魅せるための役割をきちんと果たしており、羽織られた漆黒のジャケットがより一層無駄のない肉体を引き締めるかのように機能している。首に巻かれたストールは遊びすぎず、落ち着いた大人の男を演出するスタイルだ。と、見せかけて、両の耳にぶら下げられた金色の十字架が太陽を反射してきらきらと輝いているものだから、思わず視線も釘付けになってしまうだろう。
 家訓に真っ向から反しているような、あんぐりと口を開けただらしない姿のまま一時停止していた時臣は、そこでようやく我に返って咳払いをし、首元のリボンタイを整え直した。どこからどう見ても眉目秀麗な好青年といった出で立ちの綺礼に、少しでも心を揺り動かされてしまった己をどうやら恥じているらしい。
 そんな時臣の百面相を横目に、面白くない顔をしているのはギルガメッシュだ。白のインナーに蛇柄のパンツといった、普段通りのラフな格好をしている自分が途端にみすぼらしく思えてくるほどのこの落差に、歯軋りしたくなる衝動を必死で堪える。
 まさかこの、およそ美という概念に無頓着であろう男が、先回りをして手を打っていたなどと。似合っているね、僅かに赤面して頬を掻く時臣を前にして、綺礼も少しばかり口元を緩ませていたりするものだから、余計に腹立たしい。
 ふつふつと腹の底から湧き上がってくる苛立ちから、思わず宝具を展開しそうになったところで、綺礼の背後に隠れていた小さな影の登場に、ようやくギルガメッシュは心を落ち着けた。

「お、……お父様」
「凛? こんなところで一体何を……」
「申し訳ありません、どうしてもついてくると言って聞かなかったもので」
「だって! ……お父様と一緒に街を出歩くなんて、めったにできないんだもの。キレイとギルガメッシュばっかりずるいわ」
「と、言うわけだ。許してやれ、時臣。こやつの面倒なら特別に我が見てやる、気負いすることはないぞ」

 言うなり、ひょいと凛の小さな身体を持ち上げ、まるで父親がそうするように肩に担ぎ上げると、ギルガメッシュは歯を見せて得意気に笑った。
 バカ! 下ろしなさいよ! 一歩間違えれば命を奪われかねないような暴言を吐きながらじたばたと暴れる娘に、時臣は気が気ではなかったが、そのままぐるぐると回り始めた英雄王はひどくご機嫌な様子だ。普段、自分が見ていない場所ではそれなりに仲良くやっているらしい。
 無邪気な笑顔で凛と戯れるギルガメッシュの意外な一面に、思わず張り詰めていた時臣の表情も和らいだ。一体どういう風の吹き回しなのだろう、考えようとして、彼は思考を放棄した。あろうことか幼女を肩車して往来を闊歩していく英雄王に、苦虫を噛み潰したような顔を向け、綺礼が後を追っていく。
 それは実に平和な、昼下がりの出来事であった。時臣は自らを取り巻く愛しい者たちの姿を、慈しむように目を細め、いつまでもその光景を瞳に焼き付けていようと、そう、思って。

「時臣師」
「……すまない、少し、立ち眩みがして」
「いえ、どうかご無理はなさらぬよう。さあ、手を」

 当然のように目の前に差し伸べられた、自分よりも大きく、傷だらけの掌をしっかりと握る。いくらか低い綺礼の体温は今の自分には非常に心地がよく、何よりもひどく安心できるものであった。





 喧騒に包まれた街並みが静寂の夕焼けに染まる頃。綺礼はすっかりはしゃぎ疲れて眠ってしまった凛をおぶり、遠坂邸までの帰路を先行して歩いていた。一定の間隔で伝わる微弱な揺れが気持ちいいのか、少女が目を覚ます気配はない。
 彼女にとって、父親と共有した貴重なこの数時間は、何物にも勝る幸せな贈り物であったのだろう。綺礼の広い背中で穏やかな寝息を立てるその表情は、魔術師の卵とは想像もつかないほどに愛らしく、天使のようでもある。夢の中でも今日の出来事を思い返しているのか、時折小さく呟かれる寝言が自然と耳に入ってくる。自分相手には憎まれ口しか叩かないこの少女にも、なかなかに可愛らしい部分があったものだと、綺礼は人知れず苦笑した。
 触れ合った箇所から直接伝わる温度はじんわりと暖かく、冷えた心を溶かし、癒していく。たまにはこうして休息するのも悪くはないかもしれない、らしくないことを考えながら、前方へと長く伸びる己の影にじっと目を凝らし、その後ろを歩く足音に意識を集中させた。

「……やれやれ、子供の相手は骨が折れる。この我をここまで手こずらせるとは、流石お前の娘といったところか……今から将来が楽しみだな?」
「ええ、自慢の娘ですから」
「ふん……正直に受け止める奴があるか。まったくもって気に入らん」

 などと眉を顰め、怪訝そうな表情をしつつ不貞腐れながらも、霊体化はせずに自らの足で、マスターの隣を歩くサーヴァントはどこか奇妙だ。含み笑いを零してみせれば、明らかに機嫌を損ねたような声色で、何を笑っている、半ば脅迫でもするかのような態度で迫られる。申し訳ありません、それでも笑いを噛み殺しきれずに口元を押さえたまま、謝罪の言葉だけ述べる時臣に、ギルガメッシュは呆れた様子で嘆息した。
 今の彼には何を言っても無駄であろうと、仕方なくそのまま肩を並べて舗装された道を歩いていく。前方の物言わぬ男が、背中だけで何かをこちらに伝えようとしているようで、ますます気に食わない。
 確かに、時臣を連れ出そうと提言したそもそもの主犯はギルガメッシュだ。だが、自分一人では上手く事を運ぶことも出来まい。いざマスターを前にすれば心とは裏腹な言葉を吐いてしまうのも、第三者の介入によって多少は改善されるだろうと、……これは綺礼の提案であったのだが。事実、計画は無事に遂行された。満足気に笑みを浮かべている時臣の横顔を確認して、ギルガメッシュはまた視線を外す。
 彼は人類最古の英雄王だ。何者にも隷従せず、森羅万象の頂点に君臨する唯一無二の存在。よもやこのような退屈極まりない男に、たった一度でも気を許すことなど、この先も到底ありはしないだろうが。

「……おい、時臣」
「はい……?」

 ふわり、一度触れてすぐに離れた温度に、時臣は足を止めて瞬きを繰り返していたが、やがて顔を俯け、前へとゆっくり歩き出した。その頬がほんのり赤らんでいたのは、赤く燃え上がる夕陽のせいであったのだろうか。
 何はともあれ、それで損なわれた英雄王の機嫌が直ったことは確かなようだ。鼻歌を口ずさみながら足取りを弾ませる黄金の王を背後からの気配で認めつつ、まったく世話の焼ける、深く息を吐き出し、私服を身に纏った神父は自分でも驚くほど穏やかな表情を浮かべた。
 こうして平穏な一日は終わりを迎えようとしている。やや距離をおいて離れた場所を歩く時臣は、そうしてふたたび目を細めた。
 幸福とは。自ら探し求めるものではなく、道端に落ちているものなのだと。視界を閉ざせばいつでも、この風景を眺めることができるのだと。微笑んだはずの瞳から落下した水滴の指し示す意味は、もう随分前から理解している。
 夢から醒めるまで、あと。



(120616)
時臣ハッピーバースデー!





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