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#みんな病んでる



 遠坂邸には、その美しく荘厳な外観からは想像もつかないほどに、暗闇と腐敗臭に満ちた、一切の光を遮断する地下室が存在している。いつの頃からであろうか、そういった噂が流れはじめたのは。腐っても魔術師の棲家なのだから当然といえば当然のことであったが、魔術とは無縁の一般人にとって、当主の完璧すぎるほどに立派で洗練された人間性を思えば、それが単なる人を寄せ付けないために作り上げられた絵空事であると、子供でも理解できただろう。
 一時期は人々の間で騒がれた奇妙な都市伝説も、今ではぱったりとやみ、いつの間にか世間の波に溶け込んでしまった頃合いである。新月の輝く夜、若き遠坂家当主は一人、地下へと続く階段を下っていた。妻と娘を禅城の家へ預け、使用人もすべて引き払わせた今、彼を縛るものは根源へ至るという本来の目的のみといっても過言ではない。無論、彼がこの戦争に参加する意義はそこにあるのだから至極当たり前の話だ。
 が、実際のところ、自らが動かずとも優秀な弟子が事を有利に進めてくれているおかげもあって、時臣は安心して別の作業に力を入れることができていた。元より聖杯戦争の進行は綺礼に任せておくつもりであったので、その点については何ら問題はない。
 三年の月日をかけて築き上げた信頼関係はそう安くないはずだと、揺るぎない確固たる自信が時臣にはあった。当の綺礼がどう考えているかは別として、現状は異論を挟む余地もないほどに順風満帆だ。ならば己は最強のサーヴァントを従える身として、決戦の時が訪れるまで悠然と腰を据えていれば良いだけの話だという結論である。
 さて、長らく階段を下ってきた時臣は、ようやく最下層へとその足を踏み入れた。ここは地上よりも格段と冷え、氷壁に囲まれていると錯覚するほどに寒い。今の季節は特に、ただ立ち尽くしているだけでも体力を奪われかねない室温と成り果てている。普段通り、真紅のスーツに身を通しただけの時臣は、外套を羽織ってくれば良かったかもしれないと肩を一瞬震わせたが、薄暗い奥の方で身を縮める影を視界に入れ、瞳の色を変えた。
 地下室に明かりは皆無だ。この暗さでは目を凝らしても何物の存在も確かめることができないだろう。ただ、気配のみによって察知することは可能だ。一歩踏み出した時臣に感付いたのか、弱々しく項垂れていた影が息を吹き返したように揺らめく。指先から炎を生み出した遠坂の魔術師が、手に持った蝋燭へとそっと火を灯したことにより、次第にその姿が眼前へと浮かび上がってきた。

「やあ。調子はどうだい、雁夜」
「ああ、時臣……神父が、何も食べてくれないんだ……」
「……そうか」

 唐突に発せられた、よもや彼の口から飛び出すはずもない名前に、しかし時臣は眉一つ動かすことはない。別段、予想外の出来事を前にして冷静を装っているようにも見えない。時臣は目下で蹲り、縋るようにこちらを見上げる男の姿を、もう随分と以前から知っていた。
 覆しようのない結論から言ってしまえば、間桐雁夜を壊したのは遠坂時臣本人に違いないのである。何故、憎み憎まれる相手をこのような状況に貶めてしまったのか、その真意は今となっては謎だ。ただ一つ言えるのは、そもそもの発端を思い返すことが困難になってしまったほどに両者の精神は崩壊してしまっているということである。彼らは互いが壊れていることに気づきもせず、この奇妙な同棲を長らく続けていた。
 骨と皮に近いとまでいえるほどに痩せこけた雁夜の腕は、赤ん坊ほどの人形を慈しむように抱きかかえている。糸がほつれ、裂けた布の間から綿がはみ出しているのを、無駄だと理解もせずに懸命に押し込もうと躍起になっている。空のスプーンを人形の物言わぬ口へ押しつけ、それが微動だにしないのをひどく不思議そうに、そして不安げに見つめ、はらはらと涙を零し、悲哀に満ちた表情で救いを求める姿は何よりも哀れだ。
 それは人形以外の何物でもない。雁夜が綺礼だと誤認してしまっているものは、血の通った肉塊にも成り得ない、人の型をしただけの布きれでしかない。その人形相手に必死に呼びかけ、何の反応も示さない物体の頭に相当する部分を優しく撫でつける雁夜は、もはや元の彼には戻れないのだろう。
 時臣は狂い果てた旧友を感情の籠らない瞳で卑下するように見つめ、やがて視線を逸らした。こんな意味もない観察を続け、何になるのだろうと思うことはある。だが、壊れた彼の心はまだ、雁夜を完全に見放してはいなかった。それは果たして一種の責任感による良心の痛みなのか、それともただの昂揚感から湧き上がる気まぐれなのか、誰も、彼自身にも理解することはできない。だが時臣は、こんな雁夜でも、否、こんな雁夜だからこそ、心から愛しいと思えるに違いないのだと確信していた。
 衰弱しきった彼の息の根を止めることは、蟻を潰すより容易である。まだ、その時ではない。雁夜を殺すのは、彼が完全に遠坂時臣を忘れた瞬間でなければ意味などないと。

「……きっと、綺礼は今身体の調子が悪いんだ。少し眠れば元気になるよ」
「本当に? ……でも、時臣。神父は寂しがりだから、お前が一緒にいないと嫌だって」
「はは、私の隣でなければ眠れないのは君だろう、雁夜」

 図星であったのか、指摘されて息を呑んだ雁夜の表情は、しかし安堵に満ちている。自分にとって本当に大切なものは、目の前で微笑む残虐な男か、腕に抱いた無音の人形か、さて、そのどちらでもないのが真実であるような気もするが。それでも雁夜は、今のこの生活が永遠に続いてくれればいいと、心の底からそう願ってやまないのである。
 懐に凶器を隠したまま時臣の腕がゆっくりと雁夜の細すぎる肢体を包み込む。ここに彼らの壊れた平穏を脅かす者は、誰一人として。





 その感情の名を、人は何と呼ぶのだったか。幸せそうな笑みを浮かべ、冷え切った床に身体を預けた二人の男の姿を遠目に眺めながら、彼は今自らがどのような表情をその顔面に張りつけているか想像してみた。
 この場所へ幽閉されて一週間、精神を保つことに限界を覚えはじめた雁夜へあの薄汚れた人形を渡したのは他でもない彼である。実のところ、その行為は憐憫でも慈悲でもない、ただの興味本位によって触発されたそれでしかなかった。
 雁夜が人形をその名前で呼んだのは、一種のインプリンティングによるものだろうと推測はできるものの、詳細は判然としていない。今の彼にとってあの人形と自分では、どちらが贋作であるのだろうと考えてみたところで、答えはすでに出ている。その証拠に、雁夜は彼を、時臣の知り合いの誰かとしか認識していない。それ以上でも以下でもなく、彼は、彼であることの意義を喪ってしまった。
 だが、それについて悲しみや怒りを覚えることはない。かといって悦びもない。だからこそ彼は、その感情の名を長いこと探していた。
 答えはまだ見つかっていない。彼は今後も観測を続けるつもりだ。自らが貶めたどうしようもなく救いようのない男たちの運命の果てに、己が得るものが無であったとしても。

「そうか、これが」

 人形が口元に浮かべた無機質な笑みは、彼自身の酷薄なそれによく似ていた。



(120607)





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