瞳の中の確信犯 | ナノ




#帝光時代



 真紅の夕陽が差し込む放課後の教室にて、図書室での自習を終えて戻ってきた長身の男子生徒が一人、鞄の口を広げ帰り支度を整えている。
 本来であるならば、今の時間、彼がいるべき場所はここではない。どう見ても文系男子でしかない緑間は、何を隠そう、キセキの世代と呼ばれる天才が集まる、帝光中学バスケ部のナンバーワンシューターとして名を馳せているのであって、その日の授業を終えれば真っ先に体育館へと向かっているはずだからだ。
 確かに彼は成績も良く、勉強と部活をきちんと両立できている。まさに学生のあるべき姿を体現したかのような優秀な人物であったが、オンとオフの区別をはっきりしている緑間にとって、学校はあくまで部活のために設けられた場でしかないらしい。毎日の予習復習はもちろん、試験対策の勉強も、彼が机に向かうそのほとんどの時間は、自宅においてのみ充てられるということになっている。最大のライバルである赤司に己の手の内を知られたくないという意味もあったが、何より、人目につく場での勉学は身にならないことを、緑間はこれまでの経験から十分に学習していた。
 もともと友人の少ない彼は、良くも悪くも、バスケ部に入部してから、その交友範囲を広げられたと言ってもいい。同じバスケをする仲間たちについて、煩わしく思う部分もあったが、それはそれで学生生活を謳歌できているのかもしれないと、口には出さずとも心の奥底で彼らのことは信頼している。
 だが、だからといって勉強の邪魔をしていいことにはならない。一度、成績優秀の緑間を頼り、メンバー全員で勉強会なるものを開いたことがあったが、その話を彼の前で迂闊に蒸し返すことはタブーである。あの一件があってからというもの、あいつらに関わるとろくなことにならないと心得た緑間は、滅多なことで校内で勉強することをやめた。
 よほど成績が急降下したことがショックであったらしい。今ではこうして静まり返った校舎で、時折教科書とノートを広げてみるくらいだ。なればこそ、覗き見などされてはあまり気持ちのいいものではない。否、正直に言って腹立たしいほどに不快だ。

「……そこで何をしているのだよ」
「え? やだなあ、緑間っちを待ってたに決まってるじゃないっスか」
「ならば最初から教室で待機していればよかっただろう。悪趣味にも程があるのだよ」

 驚かそうと思っただけなのに心外っスよ、などと頭の裏を掻きながら、教室の後方の扉から足を踏み入れてきたのは、同じくキセキの世代の一人に挙げられるチームメイトの黄瀬であった。あからさまに眉を顰め、振り向きもせずに無言で教科書をしまいこむ緑間の後ろ姿に、あちゃー、と黄瀬は息を吐き出す。生真面目な彼にたちの悪い冗談は一切通じないということなど、とっくに理解できていたはずだったのだが。
 嘘はついていない。緑間と違うクラスである黄瀬は、授業を終えてすぐに教室から姿を消した彼の行方を追うことができなかったのだ。だが、机の中に教科書の山は残されていたため、まだ校舎のどこかにいることと、帰宅する前に必ずここへ戻ってくることを読んでいた。
 本当のことを言ってしまえば、人払いの済んだ無人の図書室にて、彼が独り熱心に試験勉強に取り組んでいることは容易に想像ができていたのだが、そこは空気を読んでやったというか、何というか。いつだかの勉強会のこともあり、これ以上緑間を怒らせて距離を置かれるようなことになれば、一番困るのは自分であることも理解していたから、尚のこと。それでも執拗に後を追い回すような真似をするあたり、大概、彼を気に入ってしまったのだと思わず苦笑を洩らす。
 背を向けていた緑間が、うっすらと聞こえた笑い声に不愉快そうに反応を示して首だけをこちらに振り向かせる仕草も、黄瀬にとっては見慣れた光景であった。彼の性格からして、黄瀬のようなタイプが真っ先に嫌悪されることは明らかだ。入部した当初、威圧するような鋭い視線を向けられたことは今でも鮮明に思い出すことができる。
 それに、彼らの関係性はあの頃からちっとも進展してなどいない。気難しい緑間が黄瀬と言葉を交わすのはあくまでもチームメイトであるという前提があってこその慈悲であり、そもそもそのような関係でもなければ、こうして二人だけの空間を作り出すことも叶わないのだ。
 今だって緑間の機嫌はすこぶる悪いわけで、何か失言でも吐き出そうものなら拳が飛んできてもおかしくないほどの重苦しい空気である。だが、当の元凶である黄瀬はむしろこの現状を楽しんですらいた。何も彼が天性のマゾヒストであるからということではない。相手が緑間であるからこそ、という、何とも単純な小学生レベルの発想である。

「何だ、その気色の悪い笑みは」
「もう、緑間っちってば相変わらず辛辣なんスから! って、オレが最底辺だからそれも仕方ないことなのかもしんないんスけど……ほら、チーム間のコミュニケーションって大事でしょ? 同じコートに立つにあたって、ある程度の意思疎通はできないと困るっていうか。オレ、緑間っちに嫌われてるみたいスから」
「明日から定期試験が始まるのだよ。お前の私情など知ったことではないが、オレの成績に支障をきたすようであるならば黙ってはおけない。……いいか、頭の悪いお前にもわかるように言ってやろう。今すぐ帰れ。オレはお前と話したくもないのだよ、黄瀬」

 しかし、そう上手く事が運ぶわけもない。黄瀬の思惑などいちいち気にすることもない緑間にとって、この一分一秒ですら無駄な時間でしかないのだから。今重要なことは、チームメイトとの仲を深めることではない。明日以降の定期試験において、如何にして高得点を叩き出し、今度という今度こそ学年トップの座を掴み取るか。
 緑間の頭の中はその一点にのみ考えを集中させているわけであり、もはや眼前の黄瀬すら視界には入っていないという有り様だ。だからこそ、どんな暴言でも容赦なく浴びせることができる。もっとも、こういった時に限らず、緑間という少年は相手の気持ちなど考えたこともない機械的な人間であったのだが。
 一方の黄瀬はといえば、その当然といえば当然すぎる返答にまったくダメージを受けた素振りも見せず、表情に乾いた笑いを張りつけるばかりである。緑間が苛立っていることは一目瞭然だ。これ以上会話を続け、この場に留まるようなことがあれば、一切の縁を切られてしまう可能性も捨てきれない。それはそれでこの上なく面白い展開になるやもしれない、などと考えたところで、そろそろ彼の堪忍袋の緒が切れてしまいそうである。
 目線を合わせてくれているのも時間の問題だろう。彼の方にその気がないのならば、自分から出て行こうとさえ考えていそうな顔をしている。確かに、緑間の考えは正しい。相手に何を言っても無駄とわかれば、くだらない問答は無意味に等しいのだから。
 そうしてしばらく睨みを利かせていた緑間は、やがて諦めたように瞳を伏せ、教科書を詰め込んだ重い鞄を肩に担ぎ上げた。これ以上は埒が明かないと理解したのだろう。もうしばらくこの男とは口を利くものかと心に決め、その場を後にしようと一歩足を踏み出す。

「じゃあ、会話してもらわなくてもいいっス。そこにいてもらえばそれだけで、すぐ済むことなんで」
「っ、離すのだよ、オレはもう帰ると……」
「ああ、やっぱり。近くで見ると睫毛、長いんスね。……モデルのオレが嫉妬しそうなくらいには」

 唐突に手首を掴まれたことに驚いて、上手く反応できなかったことなど、今考えてみれば言い訳にしかならない。彼は完全に、黄瀬に対する言いようのない不快感と怒りで冷静さを失っていたのだ。そうでなければこのような失態、犯すはずもない。常に人事を尽くしている彼にとって、それは何物にも勝る堪えがたい屈辱でしかなかった。
 一瞬、本当に一瞬のことであった。唇に触れた生暖かい感触に、背筋に悪寒が走る。すぐさま振り払って身を引いたものの、起きてしまった事態を帳消しにすることはもはや不可能であった。あ、逃げられた、ぽかんと口を開けてそう呟いた黄瀬の表情は、普段の彼に相違なかったはずである。それなのになぜだろうか、指の震えが止まらなかったのは。

 その後のことは、わざわざ言述するまでもない。その場から脱兎のごとく走り去った緑間が、翌日以降の定期試験で過去最低点を次々に叩き出したことは言うまでもなく、その原因を知る黄瀬だけが、一人ご機嫌な様子であったことも。ただ、それ以来、二人の距離が縮まったということもまた、一種の事実としてここに述べておこう。



(120528)





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