ブラッディブレッド | ナノ




#捏造注意



 血と泥の混ざり合って判然としない匂い。周囲にたちこめた硝煙は振り払えど身に付き纏い、拭えたとしても鼻腔の奥にこびりついて決して離れはしない。この数年でそれにも随分慣れたものとばかり思っていたが、どうやら思い上がりも甚だしいようであった。
 幾度の戦場を乗り越え、また一日生き長らえたところで、だからどうしたと、この場に己の師がいたならば鼻で笑われていたことだろう。今は遠く、ここではない何処かの地にて同じように戦場に立っているであろう彼女の姿を思い浮かべ、切嗣は静かに自嘲した。
 戦いを甘く見てはいけないことくらい、彼自身が一番良く理解している。一瞬の気の緩みが死を招き、その結果、命を落としていった人間たちの愚かな末路ならば何度となく目にしてきたのだから。何も彼らの死を侮辱しているわけではない。寧ろ、戦いに身を置く彼らが命を賭して火の中に飛び込んでいくことには敬意を払うべきである。事実、軍人にとって、己の母国のために命を擲つことほど名誉なことはない。とはいえ、そうではない切嗣には彼らの心情など到底理解できるはずもなかったのだが。
 懐に忍ばせていた携帯用食料をおもむろに取り出し、その見るからに食欲を減退させるような味気のないパンに齧りつく。元より食欲などというものは切嗣から欠落していたが、こうして日夜動き続けるためには多少なりとも身体に養分を与えてやらねばならない。そういった意味で食事という行為は重要であるのだと、一晩かけてナタリアに説き伏せられたことをそっと思い返す。
 彼女は実に口煩い、まるで母親のような存在であったが、まだ戦士としての経験の浅い切嗣にはそれも必要不可欠であったのだろう。口を開けば反発ばかりしていたが、実際にこうして離れてみると心細く感じなくもない。もう十分一人でもやっていけるだろうと太鼓判を押されたところで、彼の中の不安は拭えないのだ。
 何せ、切嗣は幼い。このご時世、成人にも満たない少年少女が武器を手に取ることはそう珍しくはなかった。日本という国はまだ平和であったが、海を渡れば、戦争が日常化しているなど至極当然の現実であったのだ。自らの父親を手にかけ、ナタリアについていくと決めたあの日から、切嗣は少年だった自分に別れを告げることとなる。それはつまり、安穏とした日々からの追放を意味する。
 彼女はこれから生きていくのに必要な術を切嗣へと教えた。が、言ってしまえばそれだけであった。武器の扱い方、人間の殺し方、戦場での生き残り方。何も知らなかった少年が植えつけられた知識はあまりにも今までの彼の人生からかけ離れたものであり、如何に親を殺した経験があったとはいえ、過酷な手段でしかなかった。
 戸惑いも躊躇いもあった。それでも立ち止まることは許されなかった。人生経験の浅さを言い訳にするくらいならば、何故あの時自分は己の肉親へ銃口を向けたのかと。そう、自身に残酷な問いを投げかけるたび、切嗣は自分を捨てることが出来た。
 物思いに耽るのは一瞬だけ。今彼が最優先すべきは、標的の殺害以外に他ならない。一刻も早く任務を遂行し、ナタリアと合流しなければ。彼女のことだ、あっさりと仕事を終わらせ、今頃は呑気に煙草を吸いながら酒でも呷っているに違いない。
 ようやく乾燥したパンを咀嚼し終え、嚥下したところで、銃を片手に切嗣は腰を持ち上げようとした。まさに、その瞬間であった。彼の視界に映る位置、ちょうどここから三メートルほど先の場所に、彼よりいくらか背丈の低い影が揺らいだのを、切嗣はしっかりと捉えていた。
 硝煙で遮られ、その姿は判然とはしないが、見た限りでは子供のようである。何故このような場所に、と、当然の疑問を抱くより先に銃を構える。頭で考えるよりも早く身体が動くのは、幾多の戦場を経験してきたことによる慣れからなのであろう。そうだとしても、明らかに脆弱でしかない一人の子供を冷静に射殺しようとしている自分が切嗣は恐ろしくて堪らなかった。
 少し前までの彼ならば、躊躇いもしただろう。情けもかけただろう。実際、その子供が何をしたというわけでもない。ただそこに立っていただけだ。それが罪であるというならば、この世界は矛盾に溢れている。だが、だからこそ。この醜悪な世の中を変えるには、ある程度の犠牲を伴わなければならないと、今では達観すらしているのだ。時の流れとは残酷なものである。
 どこか他人事のように思いながら、切嗣はトリガーにかけた指を確かに引いた。

「ッ、な……!」
「……声を出すな」

 それは瞬きよりも早い、一瞬の出来事であったのだろう。事実、切嗣は今、己の眼前でこちらに刃を突き立ててくる子供の姿に、息を呑むことしか出来ない。
 弾は発砲され、一寸の狂いもなく子供の心臓を撃ち破るはずであった。切嗣の狙いが外れたわけではない。正確無比な銃弾は、その小さな身体の前で真っ二つに叩き割られた。命中しなかった最大の理由はそこにある。とはいえ、簡単に信じることなど出来るはずもない。繰り出された弾の速度はお世辞にも鈍いと言えず、避けることは愚か、ましてや両断、など。
 結果、不意を突かれた切嗣はあろうことか影の動きを見失い、気付けばこうして自分より一回りも小さい子供に優位を与えてしまっている始末だ。これが己の慢心が生んだ事態だとしても、何と運のない。
 変声期を迎える前の少年が出すには、寒気がするほど感情のない聲。深く被ったフードの中の瞳と、目が合ったような気がした。突きつけられた得物は並大抵の刃物とは訳が違う。指の間から生えるようにして覗く三本の真っ直ぐに伸びた細身の刀剣は、聖堂教会の代行者のみが用いることを許された黒鍵と呼ばれる武器に違いない。
 こんな年端もいかない少年が、信じられない思いで唖然とする一方で、切嗣は瞬間的に己の死を悟っていた。いくら何でも分が悪すぎる。体格の差があるとして、それを差し引いても明らかに自分が負けることは目に見えていた。引き金を引いている隙にその刃で心臓を貫かれでもすれば、そこでこの戦いは終わる。否、微動だにしたところでその瞬間、命はないものと考えるのが当然の流れだ。
 つまり、どう足掻いても切嗣が逃げ延びることは不可能である。如何に子供とはいえ、現行の代行者ともなれば話は別だ。個々の持つその化け物じみた驚異的な強さは、切嗣も良く見知っている。

「う、ぐ」
「声を出すな、と言ったのが聞こえなかった、……か」
「……?」

 喉元に当てられた刃が薄い皮膚を裂き、傷ついた箇所からは容赦なく血液が溢れ出る。呻き声を上げることすら許さないのか、少年が徹底した態度でさらに力を込めようとしたその時。ぐう、と、この場にそぐわない音がどこからともなく切嗣の耳へ届いた。
 疑問符を浮かべつつ、フードの闇に隠れて見えない少年の表情を見やる。彼は何事もなかったかのように装うつもりであったのだろうが、きっちりと反応されてしまったことに対する動揺を隠し通せず、思わず動きを止めてしまった。
 少年の力が緩んだのを確認し、切嗣はそっと頭を覆っていた彼のフードを剥がす。現れた顔はどこまでも昏く、翳りを帯びていたが、まだあどけなさも残されていた。光を失った虹彩は物も言わず、それきり押し黙ったまま。
 ここが戦場であることを忘れさせるほどゆっくりとした間は、切嗣の吐き出した溜息によってようやく打ち破られることとなる。そうして我に返り、再び構えられた少年の黒鍵は一瞬で叩き落とされ、代わりに眼前に突き出されたものはといえば。

「……味は保障できないけど。食べるといいさ」

 それが、衛宮切嗣と言峰綺礼の奇妙な邂逅の発端である。



(120510)





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