それぞれの芽吹き | ナノ




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 一面の銀世界で隔絶されたこのアインツベルンの地で、切嗣の荒んで凍えきった心を癒せるものなど何一つ存在しない。肺を満たしていくほろ苦い煙草の煙だけが、彼を安堵させるただ一つの要素と成り得るのであって。
 だが、そうあることに切嗣は何の恐れも寂しさも抱きはしなかった。酷く殺伐とした青年期を過ごしてきた彼には、それこそが当たり前の日常であると言ってしまっても過言ではない。彼はひたすらに孤独な男であった。無論、自らそれを愛しているわけでもないのだが、そうなるべくして運命を選択してしまったのだ、今さら文句を言うこともできまい。
 それに、切嗣は己の人生を悲嘆しようとは思わない。幼き頃に描いた夢を、理想を、現実のものとするために。たとえ、銃口を向けた先に彼の愛する者の姿があったとしても。正義を貫くためには迷わずトリガーを引く、それが衛宮切嗣という男の不器用な生き方であった。
 吸殻を灰皿に押しつけ、一つ息を吐き出した切嗣は、その時自らの鼻を突いた匂いに一瞬眉を顰めた。何かが燃えたような、さながら硝煙の舞う戦場を彷彿とさせる不穏なそれに、自室を飛び出し、長い廊下を早足で駆け抜けていく。
 どうやら匂いの出所は調理場であるらしかった。この雄大な城の中ではメイドとして生まれた数体のホムンクルスたちが毎日そつなく家事をこなしている。ならば、その犯人が誰であるかということくらい容易に想像がつくのも当然だ。
 案の定、扉を開いたその先、大きな鍋の前でおろおろと慌てふためいている銀髪の女性の姿を視界に認め、切嗣は盛大に溜息を吐いた。彼が入ってきたことに気づいた彼女は、振り返って助けを乞うような眼差しで泣きついてくる有様である。料理などというものは、確かまだ教えてすらいなかったはずだったのだが。とはいえ、そのまま放置しておくわけにもいかず、安堵させるようにすらりと伸びた背中を撫で、切嗣はゆっくりと火を止めた。

「……まったく、何をしているんだ君は。もう少し僕の発見が遅かったら、今頃は軽いボヤ騒ぎにでもなっていたところだぞ」
「……悪いことをしてしまったと、反省しています。ごめんなさい、キリツグ」
「いや……わかってくれたならそれでいいんだ。ああ、怪我はないかい? 包丁で指を切ったりとかは?」
「問題ありません。仮に損傷したところで、活動に支障をきたすことはまずないでしょう」

 淡々と告げるアイリスフィールの表情は、出会った当初に比べればだいぶ人間のそれに近づいたと言えよう。切嗣の教育の賜物であろうか、ホムンクルスとして、聖杯の器として生まれた、それ以上の価値を持たなかったはずの彼女は、己の人生に生きがいを見出すようになったのである。
 目的意識には遠く及ばないが、それでも以前までの彼女とは見違えるほどに変わったのではないかと、何故か知らず知らずに胸を撫で下ろしていた自分の心境へと疑問を抱きながらも、切嗣はアイリスフィールの白くたおやかな手をそっと持ち上げた。そうして傷一つない、陶器のように美しかった彼女の手に走る幾つもの赤い線と、不思議そうに首を傾げるその表情とを交互に見比べる。
 痛みを感じていないはずはない。ホムンクルスとて、その身体の仕組みは人間と大差ないのだから。だが、痛覚は存在しても、それを自覚する感情がなければただの人形と同じだ。切嗣と過ごすことによって様々なものを身につけていったアイリスフィールだが、その実は穴だらけの欠陥品でもある。刃物で皮膚を切ってしまったことも、別段どうというふうにも思っていないのであろう。その証拠に、切嗣の表情が徐々に曇っていくのを見ても、何のことやらといった様子だ。

「これは酷い。すぐに手当てをしてやらなければ……さあ、アイリスフィール。こちらへおいで」
「……お待ちください、キリツグ。まだ料理が完成していません。これは貴方に召し上がってもらおうと思って作ったもので、……結果としては失敗してしまいましたので、もう廃棄処分するしか方法が残されていませんが」

 長い睫毛を伏せ、悲哀の表情を浮かべるアイリスフィールに、切嗣は息を呑んだ。痛みもろくに理解できていない彼女が、今唐突に告げた事の顛末を、そう簡単に呑み込むことが出来ずに。
 誰の知恵を借りることもなく、彼女が自発的に取り組んだ初めての「料理」という行為が、他でもない、衛宮切嗣を対象としていたということに動揺を隠し通せない。何故ならその言葉を聞いた瞬間、彼の心の内を言いようのない感情が通り過ぎていったのだから。

「―――僕の、ために?」
「ええ。どうしたら貴方に日頃の感謝の思いを伝えることができるかと、ずっと考えていました。言葉だけでは伝わらないこともあると、そう学んだので。……お気に召さなかったかしら?」
「……はは、参ったな。嬉しいよ、とても……ありがとう、アイリスフィール。食べてみても、いいかな」

 切嗣の返答が意外であったのか、大きな目を丸くして、遅れて首を縦に振る。鍋の中のホワイトシチューはすっかり焦げきってしまい、とても口にできたものではない。それでもスプーンに掬ったそれを次から次へと運んでいく切嗣の表情は綻んでおり、それを見つめるだけのアイリスフィールは驚いて放心するばかりだ。
 今の彼女にはまだ理解できないのであろう。彼が控え目に浮かべた微笑みの意図することが。恐らくは、切嗣自身にも。

「ああ、温かい」



(120408)





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