曖昧ライン | ナノ




 少女は無性に苛立っていた。先ほどからすっきりと整頓された広い居間をぐるぐると途方もなく歩き回るくらいには。それはもう、火を見るより明らかである。と、家の主が留守にしているのをいいことに、普段は滅多に腰を下ろすこともない革張りのソファの上でのんびりとした日常の一時に身を任せる綺礼は、彼女の動きをぼんやり眼で追うばかりだ。
 おそらく凛は、自分がさながら檻の中で途方もなく動き回る動物園のライオンであるかのように観察されている事実にも気づいていないのだろう。彼女の周囲を纏う空気はぴりぴりと張り詰めており、とても他者を寄せつけない雰囲気だ。綺礼が凛へと声をかけない理由の一つは、そこにあったのかもしれない。もっとも彼のような傍若無人な人間であれば、そのような些事は理由にならないのであろうが。
 実は、今日は遠坂凛の誕生日である。数年前のこの日、凛は遠坂の家に生を受け、それから日々、一人前の魔術師になるための修業に明け暮れているというわけだ。まだ幼い彼女には遠い道のりであるが、生まれ持った類稀なる魔術の素養は、すでにこの先の未来を暗示しているかのようだった。
 そんな名門一族の娘として育てられてきた凛は、それなりにプライドも高く、だからこそ偉大なる父の一番弟子としてこの家に招かれた綺礼を敵視している。彼女の心中を察してか、綺礼の方も必要以上に時臣と言葉を交わさないようには心がけているが、その気遣いは逆に少女の癪に障ったようだ。己が格下に見られているのが気に食わないのだろう。何とも素晴らしいまでの向上精神である。
 そういった意味でも彼は自分を毛嫌いする凛を好いていたのだが、こうして年頃の少女らしい一面を見せる彼女も、それはまた愛らしいと思った。太陽が昇って目を覚まし、何かを期待しながらも居間へと向かった凛は、父と母が揃って外出してしまった事実を、あろうことか綺礼の口から聞かされ、それきりずっとこのような状態なのである。
 無理もない。これは彼女の思い描いていた理想の誕生日とは程遠い光景であったのだから。かといって、両親が何か自分に後ろめたいことをしているとも思えないし、一瞬でもそう思ってしまった自分が何よりも許せない。凛の苛立ちは、他でもない自分自身へと向けられたやるせないものであった。
 遠坂夫妻が娘への誕生日プレゼントを探しに早くから出かけたこと、それを娘には黙っていてほしいと頼まれたこと。朝の出来事を思い返しながら、綺礼はただ幼いその姿へ視線を向ける。真実を告げるわけにはいかない。彼にも師と交わした約束というものがある。しかし、目前の少女はあまりにも憐れだ。綺礼は思う。神に仕える己に、この娘を救ってやれる術はないものかと。

「凛、おいで」
「……今、何か言いましたか?」
「そうしていても仕方がないだろう。私ではご両親の代わりにはなれないだろうが、君一人を甘やかすことくらいは赦されると思ってね」
「なっ……! 誰が! アンタなんかに! 頼まれてもお断りだわ!」
「まあ、そう言わずに。人の好意は有難く受け取っておくものだぞ」

 ぽんぽんと膝を叩いてこちらへ来るように促す綺礼を、明らかに軽蔑したような眼で一瞥し、ふいと顔を逸らす。当然といえば当然の反応だ。あの綺礼が突然、ご機嫌をとるかのように奇妙な行動に出たことも、凛にとっては気分が悪い。放っておけばいいのに。というより、さっさとここから出て行ってほしい気持ちの方が上だ。こんな惨めな姿をこの男に見られているだけでも、また苛立ちが募るばかりなのだから。
 などと、ぴたりと足を止めて思考していた凛の身体は、次の瞬間、ふわりと羽根が生えたかのように宙に浮かび上がり、抱えた張本人の手によってそのまま彼の膝の上へと着地した。咄嗟のことに驚き、思わず口から悲鳴が飛び出す。
 座り心地は最悪だ。父とも母とも違う、触れたこともない鍛え抜かれた男の筋肉そのものである。まるで彼という人間を体現したかのように、固く、強靭で、温度を持たない。だが、不思議と安らぎがある。そこに恐怖はなく、言いようのない安堵に包まれているような気もした。と、まだ腰に据えられたままの無骨な手の存在に気づき、真っ赤になってそれを叩き落としたところでようやく凛は我に返る。
 油断も隙もあったものではない。綺礼のことだ、犯罪に手を染めるような真似はしないだろうが、そうとも断言できないところがまた危うい。両親不在の今、自分の身は自分で守らねばと、唐突に敵意を剥き出しにする膝の上の少女に、しかし綺礼は表情を変えることもなかった。

「何だ、随分と嫌われたものだな」
「あったりまえじゃない。間違っても好きになんてならないわ」
「それは残念だ。私は存外、君のことが好きだけれどね」

 素直に、何の前触れもなく告げられた直接的な言葉に、何より凛の小さな心臓は音を立てて跳ね上がった。なぜそうなったのか、彼女にはわからない。それも一瞬のことであったので、気づかないふりをしてしまえばそれまでであった。しかし、林檎のように赤く火照った顔は確かに熱を帯びている。そのあってはならない思考ごと薙ぎ払うよう、左右に首をぶんぶんと振ったり、ぺちぺちと頬を叩いたりと、忙しなく動く小柄な生き物を綺礼の双眸が背後からじっと見つめた。
 半分冗談のつもりで言ったのであったが、なるほど、面白い反応が見れた。そこに他意があったわけではない。が、敢えて弁明はしない方向でいくことにしよう。幼い少女が悩み苦しむ姿は、悪徳を極めた神父の腹を満たすには十分な食材である。
 そこで、せめてもの詫び、というのもどうかとは思うが、綺礼はおもむろに懐から取り出した小型のロザリオを凛の首に回し、後ろで留め具をきっちりと嵌めてやった。冷たい金属がひやりと肌に触れたのに、凛は顔を上げ、慌てて彼を振り返る。男は相変わらず無表情であったが、その口元はどこかやさしい笑みを浮かべているようにも見えた。

「今日は凛の誕生日だっただろう」
「え、あ……お、覚えてて、くれた、の……?」
「気に入ってもらえれば幸いだが、私と揃いの物では些かご不満かな?」
「……しょ、しょうがないからもらっといてあげるわよ。特別なんだからね……」
「ほう、それは身に余る光栄だ」

 胸に輝く黄金の十字架は、綺礼の身につけるそれと同型のものだった。まして、彼からの贈り物であるならばそれだけで特別な意味を持つ。本心は決して口にしない凛であったが、先ほどまでの苛立ちはいつの間にかどこかへ消えてしまっていた。握りしめた光は冷たく、だがその中には暖かさも眠っているように感じられ、背後から伝わる温もりによく似ている。完全に消沈して黙り込んでしまった凛を、果たして綺礼はどのような思いで見つめていたのだろうか。その答えを知る者はいない。



(120203)
凛ハッピーバースデー!





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