So, beautiful world | ナノ




 白く、穢れのない雪が、前方の遥か彼方に広がる山々を一色で覆い尽くす。吐き出す息もまた同様に、丁寧に磨かれた窓ガラスを曇らせた。今日は一段とよく冷える。暖かい部屋の中、肌寒さに僅かに身を震わせ、燃え上がる暖炉の炎へと目を凝らした。
 視界を埋め尽くす赤は、この城を覆う一面の雪すら簡単に溶かしてしまえるのだろう。温もりの内に一種の凶暴性すら秘めたその姿は、まるで夫に似ているような気がする。ここのところ、切嗣は以前にも増して張り詰めた様子で、妻である自分をも避けているように感じられた。それが彼の本意であるかなど、アイリスフィールには確かめようもない。だが、彼女はどんなときも夫のよき理解者であるよう努めてきた。たとえ彼の補佐を任されている舞弥に遠く及ばなくとも、自分は彼女とは違うかたちで力を貸すことができると信じていたから。
 事実、切嗣は滅多に感情を表に出さない機械的な人間ではあったが、アイリスフィールの前でだけは素直な一面を見せることがあった。常に不眠症である彼の唯一よく眠れる特等席が妻のほどよく柔らかい膝の上であることも、彼ら夫婦だけが共有する秘密の一つだ。しかし、最近ではそうして子供のように甘えてくることもない。単純にそこまでの余裕がないだけなのか、それとも他に理由があるのか。わざわざ問いただしてみる必要もないだろうと、結局アイリスフィールはこうして退屈な毎日を過ごしているわけなのだが。
 今日のように冷え込む日は、外出も許可をされていない。彼女の身体構造は一般の人間とはどうあっても異なっていたため、行動の一つにも慎重さが求められる。仕方のないことだ。元より人間として生を受けた身ではないのだからと、彼女とて理解はしている。それでも、いつの日か切嗣に手を引かれてあの広い外の世界を己の足で歩くことができるのだとアイリスフィールは夢見ていた。

「こちらにおいででしたか」
「あら、セイバー。今日の鍛練はもう終わり?」
「ええ。……ちょうど腹の虫が鳴きはじめたので、早めに切り上げてきました」
「ふふふ、相変わらずなのね。きっともう少しで昼食の準備が整うわ。一緒に暖まりながら待っていましょう」

 それがもう見慣れた光景とでもいうかのように、くすりと堪えきれず笑みを零すと、純白の聖女は漆黒のスーツに身を包んだ見目麗しい金髪の騎士王を手招きした。実際に、切嗣によってセイバーが召喚されてからまだ数日と経っていない。しかし、マスターと良好な関係を築くことができていない彼女に、アイリスフィールは彼の分まで優しく接してやろうと考えていた。
 彼らが真っ向から対立してしまうのは言ってしまえば仕様のない運命のようなものである。ならばその仲を取り持つのが、間に挟まれた己の為すべきことであると彼女は悟っていた。アイリスフィールからしてみれば、セイバーはもう一人の娘のような存在である。まるで、父親とうまくいかずに苦悩する思春期を迎えた少女にも似ている彼女を放っておくことはできなかった。
 一方のセイバーといえば、マスターとはまったく正反対の態度を自分に示すアイリスフィールに、最初こそ戸惑いを覚えていたものの、今ではすっかり忠犬のごとく懐いている。彼女のほんわりと温かな掌が頭を撫でる仕草が、セイバーは何より好きであった。
 呼ばれるがままにそちらへ擦り寄り、外気で冷え切った身体を暖炉の前でじんわりと暖める。サーヴァントには暑さも寒さも関係ないといえばそうであったが、まったく温度を感じないというわけではない。ただ、突き刺すような真冬の冷気の中に佇んでいようと、顔色一つ変わらないというだけの話で。

「もっとこっちに寄ったらいいのに。ほら」
「いえ、私はここで十分ですので。……ああ、そうだ。先ほど、切嗣とイリヤスフィールの会話を耳に挟んだのですが」
「? 何か面白いことでも?」
「はい。アイリスフィール、今日は貴女の誕生日だと」

 一瞬、彼女にはそれが何のことだかわからなかった。ホムンクルスであるアイリスフィールは、確かに数年前、このアインツベルン城において命を授かった。だが人間としての生とはまったくかけ離れた、器に魂を注がれただけの誕生に過ぎない。その日が彼女の中で特別な意味を持つことはなかった。
 確かに切嗣は、毎年この日だけはどんなことがあろうと自分を盛大に祝福してくれる。アイリスフィール・フォン・アインツベルンという一人の女性がこの世に生まれた日が今年も迎えられたことを、心からの幸福として。それが彼女には嬉しくもあり、歯痒くもあった。普通の生き方も認められない自分が、今、こんなにも幸せの絶頂に身を置いていてよいものかと。愛する夫と娘に囲まれ、人並みの幸福を知ってしまえば、その後がつらくなることはわかっているはずなのに。
 一年前の今日、切嗣とイリヤスフィールが、メイドたちに成り代わって自分のために慣れない手つきで包丁を握り、キッチンに立っていた光景を思い出す。まだ幼い娘の面倒を見つつも、フライパンを前にして手を焼いている夫の後ろ姿がどれほど頼りなく見えたことだったか。けれど。その些細な心遣いが、アイリスフィールには嬉しくてたまらなかったのだった。

「今頃二人は、貴女をどう驚かせようか画策しているのでしょう。と、ここで私が話してしまった以上それも失敗に終わりますが。普段無視されている仕返しです」
「随分と言うようになったのね、セイバー。喜ばしい限りだわ」
「私も騎士ですから。プライドを傷つけられればそれなりの報復も覚悟してもらわねばなりません。……そこで考えたのですが」

 いつにも増して饒舌で、口元に笑みすら浮かべるセイバーの表情に、アイリスフィールも安心したように微笑む。反りの合わない二人だとばかり思っていたが、実はもっとうまくやっていくこともできるのではないかと、そんな気もする。もしも彼女の思い描くような日がきたとしたら、今度こそ自分の居場所はなくなってしまうかもしれない。だが、それは恐怖することではない。何より、大切な人たちに囲まれたこの空間を、彼女は愛しているのだから。
 この先にどんな未来が待ち受けようと、幸せだった頃の思い出をそっと胸の引き出しにしまっておけば、どんな痛みにも堪えられる。たとえそれがアイリスフィール自身を殺すことになってしまったとしても、嘆くことはない。

「世界を滅ぼす魔王の手から、姫をお救いいたします。どうかこの手を」
「……、……ええ、喜んで。私の大切な騎士様」

 差し伸べられたまだ幼い少女の手に自分のそれを重ね、彼女は腰を上げた。この勇敢なる騎士王ならば、あるいは遠い昔に憧れた冒険の旅に誘ってくれるやもしれない。過保護な彼は断じてそれを認めてはくれないだろうが、それでも構わないだろう。今日くらいは羽目を外して迷惑をかけても罰は当たらないはずだ。
 珍しく乗り気のサーヴァントに腕を引かれ、姫は自らを閉じ込めていた檻を脱出する。差し当たっては、背後から迫りくる魔術礼装を片手に構えた追手から逃れることを第一優先としなくてはならなさそうだ。



(120201)
アイリハッピーバースデー!





人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -