牙剥く猫にご用心 | ナノ




#けもみみ注意



 朝から気分は最悪であった。生まれつき感情の変化に乏しい人間だということは十分に自覚しているが、それを差し引いてもとにかく最悪であった。
 原因は言わずもがな、あの面倒で口うるさいどこぞの英雄王だ。今うっすらと目覚めた瞬間のことを思い出してみたが、それだけで無性に苛立って仕方がない。あまりのことに我を失いそうになったが、辛うじて理性を押し留めることができた自分を褒め称えてやりたいほどだ。頭の中で、あの男が腹を抱えて私を笑い飛ばす姿だけが断片的に記憶されているのも何かの陰謀としか思えない。
 その後、例の私を敵視している少女と遭遇してしまったのはさらに最悪だった。指を突きつけ、これでもかと言うほど、それはもう普段の恨みを倍にして返す勢いでひたすらに嘲笑う彼女は小さな悪魔にすら見えたものだ。今から将来が末恐ろしいと思いつつも、母親を呼びつけられる前にさっさと退散した。間違いなく今日は厄日である。
 そうして何を考えたか、自室ではなく自らの師の私室へと逃げ込んだ己の思考を今さらになって呪う私がいるのだ。いくら冷静な判断ができない状況下であったとはいえ、これはまずい。非常にまずい。あの、滅多なことでは動揺を見せない師が、あろうことか口をぽかんと開けて手に持ったグラスを滑り落としてしまったほどだ。それは確かに衝撃的な光景ではあっただろうと思う。本人が鏡に映った己の姿を目の当たりにして思わず眩暈を起こしたのだから、当然のことだ。

「……綺礼、……聞いてもいいかな」
「……はい」
「その、耳は……本物なのかい」

 この状況で一番に聞きたいことが果たしてそれでよかったのかと、返したくなる衝動をぐっと堪えて深い溜息を零す。まさか私が冗談で飾り物の猫耳をつけるような人間であると、時臣師はお考えなのだろうか。心外である。というより、もし本当にそうであったとしたなら彼の眼には私がどのように映っているのか興味深くもあるのだが。
 ぴくり、意に反して頭の上から覗いた真っ黒な獣の耳が反応を示す。それを見逃さなかったのか、おお、感嘆の息を洩らしてなぜだか楽しそうに身体を揺らす師は、まるで子供のようにあどけない。衝撃と驚愕の表情から一転して顔を綻ばせているあたり、予想外の順応性にむしろこちらが驚かされるばかりである。
 彼は何も疑問には思っていないのだろうか。例えばこの場合、もっとも注視すべき点はどのような過程でこうした結果に至ってしまったのかということだが。もはや導師はそのような些事など気にも留めていない様子で、何事もなかったかのように絨毯の上に落ちたグラスを拾い上げてテーブルの上に置き、期待に満ちた目をしてこちらへと歩み寄ってくるだけだ。もしや動物がお好きなのだろうか。いや、そういった問題ではない。
 余計なことを考えていたおかげで伸ばされた手を回避する間もなかった。時臣師の指が柔らかな毛に覆われたそれにそっと触れる。どうやら触覚はあるらしい。ほんのりとだが、温度も伝わってきた。実感すると同時に、これが本物であるとあらためて思い知らされたような気がして内心で深く絶望したのだったが。

「き、綺礼! それはまさか尻尾では……」
「……ええ、仰るとおりです。それよりも師よ、」
「……触っても?」
「……、……まあ、構いませんが」

 こう、今の私が言うのも説得力に欠けるというものだが、まるで緊張感のない会話である。名門魔術師の出である彼のことだ、もう少し違った反応を期待していた自分が愚かだったということだろうか。動物園の檻の中で飼育される猛獣の気分が理解できたような気がする。これはある意味で蔑まれるよりもつらい目に遭っているのかもしれないと、考えたところで胸が苦しめられるような思いに駆られたので思考を閉ざした。
 さて、質問をされなかったのでここで簡単に経緯を話しておくと、この突然変異にはギルガメッシュの持ち出した妙な薬物が起因しているにまず間違いない。私とて奴に対する警戒は怠っていなかったはずであったのだが、酒瓶の方に細工されていたなどとはつゆ知らず、というわけである。
 あれは、一度くらい殺してやっても世のためになるのではないだろうか。むしろ私の、いや、私と時臣師の平穏を守るためにもそうすることが決定づけられているはずだ。そうだな、そうと決めたら今夜にでも決行するとしよう。アサシン、は使えない。もともと戦闘に特化したサーヴァントではないのだ。数で対抗したところで五分も経たず殲滅されるのが目に見えている。ならばやはり私自身の手で息の根を止めてやるしかあるまい。黒鍵は通用するだろうか。いっそのことあの憎たらしいまでに整った顔面に正面から拳を叩き込んでやればそれでいい気もする。その前にこれをどうにかする方法を聞き出さねばならないのだが。
 と、穏やかに殺人計画を練っている私の傍らで相変わらず師は心地の良い笑みを浮かべながら、垂れ下がった尻尾を柔く揉んでいる。随分とご機嫌だ。というより、すっかり緩みきっている。なるほど、これにはなぜだか時臣師を惹きつける効果があるというわけか。こんなにも柔らかい表情をした彼をこの距離から観察することができるとは、なかなか悪くもない話である。しかし、それにしても。師にならば触られるのは一向に構わないのだが、だんだんと妙な気分になってきたような、

「時臣師」
「ん?」
「あまりそうされると、私も我慢がならなくなります」

 先ほどから薄々感づいてはいた。一定のリズムで与えられる心地いい刺激に、少なからず高揚感を覚えていたことに。加えて、手を伸ばせば引き寄せられる位置にある身体から漂う甘い香りが鼻について仕方がなかった。どうやらこれのおかげで五感がいつもより敏感になっているらしい。普段なら別段感じることのない、僅かな汗の匂いにすら脳髄を汚染されているあたり、我ながら随分と浅ましいものだと思う。
 掌がしっとりと汗ばんで全身が熱を帯びているような気がする。きちんと直立しているはずなのに頭が朦朧として、ふらついているような錯覚を覚える。思わずその肩に縋りつき、ざらついた舌で白く細い首筋を舐め上げた。震え、揺れる瞳がいじらしい。つい嗜虐心をそそる姿に、私が猫であるならば彼は鼠だろうかとゆっくりほくそ笑んだ。
 考えてもみれば存分に遊ばれたのだから、あとは何をしようとこちらの勝手ではある。抵抗も言い訳も受け入れる筋合いなどはじめからない。まずはこれを骨の髄まで味わって、英雄王の処罰はそれからでも遅くはないだろう。時間は十分に残されている。そういえば餌の時間がまだであった、道理で腹が空いたわけだ。

「猫であろうと飼い主に牙を剥くことも当然ございますゆえ、お忘れなきよう」
「待て、……っ、う、は……」
「残念ながら私は忠犬ではありませんので、その命令には従えません」

 さて、熱いミルクは火傷を負ってしまうから彼に飲んでいただくとして、こちらは身を喰らうのに精を費やすとしよう。



(120123)





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