わかりたくもない | ナノ




 その部屋に一歩足を踏み入れ、最初に思ったことといえば、いわゆる生活感というものが欠落しているといった点以外にはなかったような気がする。他でもない神聖な教会の一室であるのだから、それは当然の話であったかもしれない。仮にも神職に就いた者が俗に埋もれた生活をおおっぴらにするというのもあまり好ましくはないだろう。それこそ彼らの信仰する神の、天から降り注ぐ慈愛に満ちた光も閉ざされてしまうに違いない。とはいえ、生まれてこのかた一度も神など信じたこともないランサーから言わせてみればどうということはないのだ。たとえ己のマスターが神父を名乗るにふさわしくもない悪人であろうと、別段関係はない。
 要は、彼に与えられた役割はサーヴァントとしてマスターの命令に従い、この戦争に勝ち抜くだけのものであるということだ。つまるところ本来ならば一切の私情も挟むべきではないし、彼のマスターもそれを望んではいることだろうと察しもつく。だからといって飼い主に尻尾を振るばかりの忠犬に成り下がるつもりは毛頭なかった。自分を生かすも殺すも、全ての権限を握っているのは間違いなくこの男であろうが、絶対服従を誓う義理もない。それだけは契約の前に了承してもらわねばなるまいと固唾を呑んだのだが、当のマスターも快く頷きを返してくれたおかげで両者の間に血が流れることはなかったのだった。
 そういったわけで、ランサーは召喚されてからすでに二度の令呪による縛りを受けてはいるものの、それ以外は何ら不自由のない生活を与えられていたりもする。行動に制限がないというのはそれだけこちら側が有利に動けるということだ。確かにランサーにとってそういった優遇はありがたいものであったが、しかし読めないのは己がマスターの真意である。
 いつ裏切るかもわからないサーヴァントを野放しにするというのは、いくら優れた魔術師だろうと真っ先に切り捨てるべき思考に他ならないはずだ。結論からいえば、彼は特別腕の立つ魔術師でもあるまい。十年以上前は聖堂教会の代行者として名を馳せていたと聞くが、だからといってサーヴァントを力ずくで組み伏せることができるわけでもなかろう。にもかかわらず、彼のマスターはいかなるときもその表情に余裕の笑みを浮かべるような奇妙な人物であった。
 瞳はどこまでも深く、昏い色をしている。覗き込めば吸い込まれ、二度と這い上がってこれなくなるような威圧感を湛えたそれが、ランサーは苦手であった。というよりはマスターそのものを最初から敵視していたのかもしれない。人の心を容易に暴き、嘲りながら土足で踏み躙るような、そう、それはそもそも人間のすることではなく。

「あれは、間違いなく悪魔だ」

 ぼそり、誰にいうでもなくランサーは無人の空間に向かって呟いた。部屋に備えつけられたソファは彼個人のものであるためか、至って質素なものである。二人掛け程度のやや小型のそれはスプリングも軋み、ところどころ破れていたりもした。以前、買い替えるつもりはないのかと聞いたところ、そろそろ新調する予定だと零していたのを本人はすっかり忘れてしまっているのだろう。何分、そのような些事に時間を割いている暇はないのだ。今こうして自分が足を伸ばして寛いでいる間にも、冬木のどこかではサーヴァント同士による戦闘が始まっているかもしれないのだから。
 果たしてお咎めを食らうだろうか、考え、それはないだろうと首を振る。あのマスターは実は初めから自分に何の期待も抱いていないのではないかと、心のどこかで感じることがあった。実際のところどうだかは知らない。それを聞いたところで答えが得られるとも思えない。だからこれは胸の内にだけしまい込んでおけばいいし、そもそもたいして気に留めるようなことでもない。
 背に凭れ、息を吐き出す。最低限の家具しか置かれていないせいもあって、やけに広く感じる部屋であった。マスターが苦手ならば、この場所も不得意ではある。何もないからこそ、何かあるように思えて仕方がない。何の縛りもないのにこの身を拘束されているような、感じるはずのない違和感が津波のように押し寄せてくるこの場所が。それでも彼はここへ、帰ってこなければならなかった。

「ほう、誰が悪魔だというのか。詳しく聞かせてはくれないかね」
「……それを俺に言わせるつもりか、エセ神父」
「誤解しているようだが、これはコミュニケーションの一環であって脅迫でも何でもない。そう怯えなくともいいだろう」

 いつからそこへ立っていたのか。数分前か、それとも一時間前か。あたかもその場所があらかじめ決められていた定位置だったとでもいうかのような自然ささえ漂わせて、言峰綺礼はランサーを見下していた。驚きもせずいつもと変わらぬ会話を交わすあたり、彼との生活にもようやく慣れが生じてきたと喜ぶべきことかもしれない。いや、むしろそれは嘆くべきか。この男の生態などまったくもって理解したくはない。だがしかし、相手の考えていることや言いたいことがわかってしまった瞬間、ランサーは途方もない悩みに暮れることがあった。大体において、綺礼のような人間と心を通わせること自体が過ちであるのだが、彼がそれに気づいたのはつい最近の話であって、つまり手遅れなのである。
 大袈裟に溜息をつけばそれだけでさも愉しそうに微笑むマスターの表情など、正直なところ目にしたくはない光景だ。ああ、目を背けるのは実際には簡単である。視界に入れることを拒絶した分だけ、別の罰がふりかかってくるのだとしっかり自覚さえしていれば。
 どうということはない。それはランサーにとって、気に留めるほどのことでもない。なぜならそれが日常であるからだ。身を溺れさせてしまったとしても、常であるのならば仕方がない。そう考えることにしている。つまり、諦めも肝心だということである。

「さて、話の続きといきたいところだが、ランサー。そろそろ餌の時間だ」

 口を開けばそのまま、言葉と共にすべてを呑み込まれる。供給されるのはこちら側だというのにどうにもおかしな話だと、ランサーはいまだに腑に落ちないのであった。



(120121)





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