ブラックアウト | ナノ




#原作ネタバレあり



「怖かったんだ、どうしようもなく」

 憂いを帯び、今にも泣き出しそうなその横顔にかつての面影はない。くたびれて皺の寄ったスーツはところどころ擦り切れ、ほつれていたが、そうなった要因を作ったものは呆れるほど長い時の流れでしかないことを知っている。実際のところ、聖杯戦争が終結してからはまだ一年も経っていない。が、このたった数ヶ月の間で彼は変わってしまった。
 自らの正義を貫こうとする強い意志の灯った眼差しはもう色を失くし、濁りきったそれにはもはや何の感慨も浮かばない。ただこうしてぼんやりと灰色の空を見上げ、思い出したようにそう呟く彼に、あのとき感じた熱く煮え滾るような想いは二度と湧き上がってこないのだろうと心のどこかで思う。
 確かに、私は。衛宮切嗣という男に執着し、縋りつき、焦がれていた。それが愛情なのか殺意なのか最後まで理解することはなかったものの、他でもないあの瞬間。正面から火花を散らしてぶつかり合い、サーヴァントの助勢も得ず、ただ己の力のみをもってして刃を交えたとき。私たちは愛し合っていたのだろうと思った。しかし結局、蓋を開けてみたところでこの男の本質は私の追い求めるものとはまったく異なっていたのであって、聖杯の見せた真実に絶望する彼の顔ほど滑稽なものはなかったであろう。
 それは人間のすることだ。だが違う、衛宮切嗣は人間などではない。少なくとも私の思い描いていた、そうあってほしい衛宮切嗣は人間ではなかった。だからこうして今、肩を並べている事実が不思議でならない気もする。争うこともなく、血を流すこともなく、ただ穏やかな日常の中で何気ない会話を交わすだけの。

「僕は正義の味方にはなれなかった。でも、それでよかった」
「……なぜだ?」
「これ以上見ていたくなかった。僕の手で壊されていく世界の姿を」

 あれから私たちの関係は少しばかり変化した。きっかけは恐らく、ほんの些細な出来事であったように思う。何であったか思い出すこともできぬほどの些事であったことは間違いない。だが実際、今まさにそうしているように逢瀬を重ねることが増えた。以前までは逃げてばかりいた彼がふらりと教会を訪れ、何の気なしに誘いをかけてくるというのも考えられなかった話である。
 時には他愛ない世間話をした。時には街を歩いた。時には食事を共にした。時には寄り添った。時には肩を貸した。時には身体を重ねた。時には愛も囁いたかもしれない。けれど、それを私がどう思うこともなかったのと同様に、彼もまたそうであったはずである。
 焼け落ちたあの場からたった一人の子供を救い出し、息子として育てていると耳にはしているが。どう見ても今の衛宮切嗣は生きながらに死んでいる。それは以前の彼を知っている私であるからこそ言えることなのかもしれなかったが。今でも思うことがある。私の隣で切なそうに瞳を細めて語るこの男は一体誰なのかと。

「だから、塞いでくれないか。君の手で」
「逃げるのか、衛宮切嗣。貴様の理想はその程度のものだったと、そう言うのか」
「理想、なんて。そんな高尚なものじゃないさ。ただの子供の夢だ」
「……そうだな。お前は、あまりにも幼い」

 浮かべた笑みすら乾いたものではなく、ひどく潤った純粋なもので、言葉に詰まりそうになったのを気づけば必死で繋ぎ止めていた。そこで何も返さなかったとしたら、それはそれで何も起きなかったかもしれないし、やはり何か起きたかもしれない。ただ、高く積み上げた積み木の山がぐらぐらと不安定な動きで揺れていたのをどうにかして支えなければならないと思っただけだ。よく考えてみればどうかしていた。彼がどうなってしまおうが関係のない話であったし、むしろ私にとってはそれこそが望みであったはずだ。理解などできるはずがない。いや、本当は。理解していながら目を背けていただけだったか。

「ああ、暗い。ひどく心地がいい。安心する。もうこれで怖い思いをすることもなくなったよ。ありがとう、綺礼」
「礼には及ばん。それでお前が救われるのなら」

 背後から手を伸ばし、そっと両の目に蓋をする。視界を閉ざされた完全な闇の中、彼は心から安堵したように暖かい息を吐き出した。白く色を帯びたそれが天に向かって立ち昇っていく。一切の抵抗もない、心を解き放ち身を任せる仕草は危うげで脆弱だ。たとえこのまま彼の濁った硝子玉のような眼球に爪を突き立て、指で抉り出したところで、彼は鮮血を垂れ流しながらそれでもゆっくりと微笑むのだろう。
 赤く濡れた自分の掌を頭に思い浮かべる。それは思ったよりもずっと容易で、そうすることこそが彼にとっての最善であるような気さえした。何も見たくないというのなら。塞ぐよりも確実で決定的な方法などいくらでもある。気づいていた。気づかないふりをしていた。
 少し残念なのは、視覚を遮断された彼が私の悦びに満ちた表情を目に焼きつける権利すら永遠に剥奪されてしまうことくらいだ、が、悲しむことはない。目を閉じればいつでも簡単に、脳裏に思い描くことができるはずであるから。ああ、いや、閉じるための眼がお前にはなかったのだった、



(120109)
BGM:狭心症





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