穢れなきゆえに | ナノ




 年の瀬も間近に控えたこの頃、寒い日が続く。室内で暖をとっていようと、しんしんと冷えた空気は肌を突き刺すように鋭い。ちょうど暖炉に薪をくべていた綺礼は、ふと寒そうに身体を震わせた時臣を仰いだ。だがそれも一瞬のことで、瞬きをした間に彼は元の、凛とした姿勢に戻ってしまっている。たとえ弟子の前であろうと一切の気を抜かないことを信条としている師のことだ、当然といえば当然だろう。まさかそれを偶然とはいえ見られていたとも知らず、机に広げた文献へ引き続き目を通す時臣を、綺礼の視線だけが追う。
 轟々と燃え盛る炎は己の内に眠る未だ見ぬ感情の象徴でもあるかのようだ。氷で固めた壁はじわじわと熱によって溶かされていく。自分の知らない自分が息を殺し、身を潜めて表に出るそのときを待ち侘びている。それは気味悪くも心地よくもあり、暖かいようで寒いようで。自らを襲う感覚に綺礼は呼吸すら忘れていた。

「綺礼」
「……はい。お呼びでしょうか」
「いや、今日は君の誕生日だっただろう。今晩は妻が腕によりをかけた料理を披露するようだから楽しみにしておくといい」

 呼び止められたことによりふと我に返る。そうしてそれまで凝視していたことについて咎められるのかと身構えていれば、まったく違った言葉が返ってきたものだから、綺礼は口を開いたまま何も言うことができなかった。
 誕生日という響きを、長年耳にしていなかったような気がする。幼い頃は父に祝ってもらったこともあったかもしれない。だが、別段思い出になるような出来事があったわけでもなかった。その日を妻と過ごしたことも当然あった。しかし、暖かい家で食卓を囲み、他愛もない会話をするという当たり前の幸福すら彼らには刹那のものでしかなかった。
 そもそもの大前提として、言峰綺礼は人並みの幸せなど求めはしなかったのである。誰もが望むそれを得たところで彼には何の感慨も浮かばない。幸福であれ不幸であれ、それが綺礼にもたらすものなど何もなかった。今までそうした人生を送ってきた。人は己の生き様を不憫に思うのだろう。だが、彼は悲嘆することも後悔することもない。なぜならそれが言峰綺礼という男そのものであったからだ。
 ゆえに、師である時臣の口から吐き出されたその単語は、とりたてて彼を喜ばせるようなものではないのである。とはいえ。この場は表面上だけでも取り繕っておくべきが道理と見てとれる。ましてや彼の妻がそれに関わっているとなると、下手なことを言って落胆させかねない。
 時臣をはじめとした遠坂の人間は、余所者である綺礼にもどことなく心優しい。いくら彼が古い知人の息子だからといって、そこまでしてやる義理はないだろうに。御三家の人間ともなれば、人情の欠片もない非道な輩であろうと高をくくっていた己を少しばかり諌めるほどには、彼らは優しすぎた。まるで血の繋がった本当の息子の誕生日を祝福するかのような穏やかな笑顔に、しかし綺礼は素直に喜ぶことなどできるはずもない。

「それは何よりも有難い。ですが師よ、そのようなお心遣いは無用です。身に余る幸福は未熟な己を堕落させる要因ともなりますゆえ」
「はは、そこまで深く考えずとも。私も妻も、娘も。ただ君を祝福したい一心であるだけだ。他意などないよ」
「……そう、でしたか」

 それはまったくといっていいほど嘘偽りのない、清廉とした響きを放った言葉であった。彼の言うとおり、そこに他意などないのだろう。娘の凛はどうやら綺礼を敵視している節もあるが、こうして一つ屋根の下で生活を共にしている身だ。本当に憎まれているのだとすればそれもとうに破綻しているはずである。ともあれば、やはり。この家の者は、魔術師とは到底思えないほどの甘さをもってして、自分に接している。それがいつか命取りになる日がくる可能性も否めない、混沌とした世であるにもかかわらず。
 文献の頁を捲る手を休め、こちらへと投げかけられた時臣の視線は驚くほどに美しく、それでいて儚い。最初に顔を合わせたその瞬間から綺礼には思っていたことがある。遠坂時臣は優雅なしなやかさを持ち合わせているがゆえにひどく脆く危うい存在なのだと。現に、彼はたかだか二年余り教鞭をとっただけの教え子へ完全に気を許し、信用しきってしまっている。それがどういった意味を持つかも知らずに、とは。
 本来、時臣のような男は魔術師になど向いていないのだろう。それでも先代の遺志を継ぎ、遠坂の名を背負ってこの戦争に臨む姿勢である。何とも立派なことだ。それでいて甘さは捨てきれないなど、魔術師には致命的な落ち度に他ならない。いや、たとえ時臣が綺礼を実の家族同然に扱っているとして。魔術師という部類は、愛する家族すら擲つ覚悟を持たねばならないのが世の常である。なればこそ、その慈愛に満ちたエメラルドにも似た碧眼はいずれ壊れゆく運命にあった。

「ならばお聞きしますが。導師からも何か贈り物があると期待してよろしいのですか」
「……まさか君からそのような言葉が返ってくるとは」

 う、と。予想外の言葉を受けて時臣は詰まる。明らかに動揺した様子の師を前にして、綺礼は半ば上機嫌だ。どうにも彼は不慮の事態への対応が苦手であるらしい。こればかりは常に余裕であることを心がけている時臣の弱点に違いなかった。ただ、仮にも己の師だ、こうして愚弄しては心も痛むというものである。元より彼は聖堂教会に所属する神父なのだ、それもそのはずであったのだが。
 手入れの行き届いた顎髭を撫でるように忙しなく触るのは、時臣が戸惑いや焦燥の念に駆られている紛れもない証拠だ。彼も人間なのだから思い悩むのは当たり前で、しかし先ほどまでの優雅さがあまりにも欠落してしまっているその様は、何と言ったらいいものか。綺礼はおもむろに腰を上げ、首を捻る時臣の目の前へ立ちはだかる。そうして向けられた視線は、先ほどまで彼が向けていたものと変わらぬ安穏さを含んでおり、思わず師は驚きのあまり息を呑んだ。

「ご安心を。私の欲するものならば、すぐ目の前に」
「……綺礼?」
「今はまだ、これで良しとしておきましょう」

 近づいた唇が囁いたあと、己のそれに触れた感触の意味を時臣は知らない。だが、そうすることで唯一の愛弟子が一年に一度の今日という日に、どんなかたちであれ幸福を感じることができたのなら。師にとってはそれで十分であったのかもしれない。



(111227)
綺礼様ハッピーバースデー!





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