聖なる朝に | ナノ




 その日は彼にとって特別であり、それゆえにどうということもない一日であった。おそらくは大半の人間が、自分だけに与えられた一年に一度訪れる大切な日にただならぬ思いを抱いているに違いない。それが世の条理というものだと、言峰綺礼は理解していた。しかし皮肉なことに、彼と一般人の思考とが必ずしも相容れるものとは限らないこともまた事実である。照りつける朝日を仰ぎ、すう、目を細め、普段と何ら変わりない一日の始まりを深く息を吸うことで実感した。
 と、勢いよく向こう側から駆けてきた影が自らの足に体当たりをかましてきたのに綺礼は視線を下げる。小さな身体は丁寧に磨かれたフローリングの上でより一層縮こまり、頭を押さえて唸り声を上げている。ふたつに束ねた艶やかな黒髪は今日も美しく、一切の乱れもない。ただいつもと違うことがあるとすれば、それを結わいたリボンが少しばかり曲がってしまっていることくらいだろうか。
 うっすら、目尻に涙すら浮かべて悔いるように、恥じるように俯いたままの少女を、綺礼は相変わらず傍観している。彼にとっては朝から元気なことだと、単に感心すべき事象でしかないものの、眼下で蹲る彼女には堪えがたい屈辱であると知ってのことだ。唇を血の滲むほど強く噛みしめる幼い姿に見兼ねて手を差し伸べたのも、実際のところは好奇心が勝っただけに過ぎない。案の定、こちらを見上げる凛の瞳はどこまでも気丈で、大の大人ですら怯ませるほどの迫力があった。ともあれ、綺礼からしてみれば年相応の少女の懸命の強がりでしかない。彼はなかなかに、師の娘であるこの子供を好いていた。

「立てるかい、凛」
「こっ、こんなの全然平気よ! アンタの手を借りる必要なんかこれっぽっちもないんだから!」
「そうか、それならよかった。君に怪我でもさせてしまったら時臣師に合わせる顔がなくなってしまうからね」

 白々しくも真顔でそんなことを言ってのけるこの男の紳士的な態度ほど気に食わないものはないとでも言いたいのか、伸ばされた手を躊躇いもなく払いのけて凛は立ち上がる。時臣の弟子としてこの家にやってきた瞬間から、綺礼は娘である凛に憎まれるべき対象でしかなかった。まだ幼い少女にはそれも当然といえよう。よもや敬愛する父の一番弟子が自分ではなく、余所から当然のように土足で家に上がり込んできたどこの人間かもわからないような男であったなど。
 いまだに彼女は心を開かず、彼を赦そうとも思わないのだろう。しかし、父や母の前では優等生の凛も、自分を目の前にすれば途端に荒んだ心中を曝け出すのだから、実にからかいがいがあっておもしろい。ただ、綺礼もこの家では筋の通った好青年ということにはなっている。間違っても師の愛娘に手酷い真似をすることはない。だからこそ、こうして掌の上で転がす程度に留めているというわけだ。それが何より彼女への精神攻撃になると理解した上での言動である。その感情のない表情を今は精一杯睨みつけることしかできずとも、いずれ一矢報いてやろうと。凛は小さな胸に決意を抱いた。

「……ねえ。アンタ、今日誕生日なんでしょ」
「おや、覚えていてくれたのかな」
「ちっ、違うわよ! お父様とお母様が話してるのを偶然聞いただけで、別に……! そんなの知らなかったもの! ほんとだからね!」

 勘違いされると困るとでも言わんばかりにあれこれと次から次へ捲し立てる凛の姿は、さぞや滑稽であったことだろう。いつもの仏頂面で軽く流してやるつもりが、つい微笑すら浮かべてしまった。あの綺礼が自分を見て笑っている、それだけで小さな少女はまたも何も言えなくなり拳を握りしめて唇を噛む。
 馬鹿にされていることくらいは彼女とて理解している。そうであるからこそ、赦せない。何より天敵の前で失態を晒すような真似をしてしまった自分自身が。完璧であろうとすればするほど、どうしてだか彼を相手にすると途端にドジを踏んでしまう。それは情けないし、恥じ入るべきだ。実は凛のそれは遠坂家伝来のスキルのようなものであったのだが、ましてや当の本人が気づくこともなく。
 だからこの男が苦手だ。きっ、と涙ぐみながらも必死に綺礼を睨み上げ、凛はスカートのポケットを漁り、薔薇の花をあしらった古いブローチをその掌に掴んだ。それは確かに彼女にとって大切なものである。一年前、父からもらったクリスマスプレゼントだ。にもかかわらず、なぜそんなものを他人に、しかも決して気を許してはならない男に渡そうとしているのか。幼い彼女は自身の考えがわからず苦悩する。けれど。これは綺礼にこそ渡すべき品なのだと、自分の中の誰かが囁いたような気がしたのだ。

「……凛。これは?」
「……見ればわかるでしょ。誕生日プレゼント」
「だが、お父上からいただいたものでは」
「そっ、そんなのわかってる……でも、だから、ええと、とにかく! わ、私だと思って大事にしなさい! ……そうじゃないと許さないんだから」

 最後の方は消え入りそうな声であった。掌に乗せられた古めかしいそれと、俯いて押し黙ってしまった少女とを交互に見比べる。彼女がどんな思いで、父からもらった大切な品物を自らにプレゼントと称して渡したのか。果たして綺礼にはその意図など読めない。だが、掌の中で咲いた真っ赤な薔薇の花は、なるほど気高く強い凛の姿に似ている。
 ふ、と、一瞬口元に笑みを浮かべ、ブローチを握り込んだ綺礼はあらためて少女と視線を合わせるよう地に膝をついた。何かを堪えるように震える拳を外側から一回り大きな手で包み込み、そっと頭を撫でる。凛の表情は魔術師のそれなどではなく、一般の子供と変わらない年相応の愛らしい貌だ。綺礼は心が擽られるようだとふたたび笑みを零し、その穢れなき雪原のような頬に感謝の意を込めて軽く唇を落とした。

「なっ、ななななななにするのよ! 綺礼のバカ! 変態! 最低!」
「感謝の接吻のつもりだったのだが、お気に召さなかったか。残念だ」
「お、お父様に言いつけてやるんだからっ……!」

 ぽかぽかと殴りつけてくる拳には、しかし言葉とは裏腹に一切の力も込められていない。耳まで赤くして涙を滲ませる彼女には悪いことをしてしまったかもしれないと、少しだけ罪悪感を抱きつつも、まだ年端もいかない少女の純粋な反応に、綺礼は確かなものを感じていた。それは嗜虐心であったか、悦楽であったか、あるいは。



(111227)
綺礼様ハッピーバースデー!





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