駄犬と調教 | ナノ




 仄かに漂う芳醇なワインの香りは、荒んだ綺礼の心を浄化するに等しい効力さえ持ち合わせている。とはいえ、酒を嗜むことによって彼が満たされるかといえばそれはまた別の話ではあるのだ。
 退屈しのぎに世界中から集めた数えきれないほどの美酒たちは、今や両手で数えられるほどの量にまで減っていた。手に入れた当の本人が口をつける間もなく空になった瓶があちこちへと転がっている様を、師への報告を済ませ自室に戻ってきた綺礼が呆れたように見やるなど、もはや日常の一環に過ぎない。犯人は言わずもがな、革張りの赤いソファへ深く身を沈ませ、グラスを片手にワインを呷る黄金の英雄王に違いなかった。
 彼は綺礼の師である時臣の召喚したサーヴァントである。が、どうにもマスターとは相容れないようで、それが原因なのか定かではないが、最近ではこうして綺礼の元へ出入りしていることが多い。同じ市内といえど、時臣の拠点としている深山の邸宅と教会とではそれなりに距離もある。もしもマスターの身に何かあった場合、この慢心王は一体どうするつもりであるのだろうか。いくら人間離れした英霊とはいえ、令呪の力以外に瞬間的に移動することは叶わない。危機を察知したとして、そこへ駆けつけたときには何もかもが手遅れになるだろうことも予想はついている。にもかかわらず、だ。綺礼が自室でギルガメッシュの姿を見ない日はなかった。
 彼としては唯一安穏と過ごせる聖域が穢されたような気がして、どうしようもない王の侵攻に極めて不服であったのだが、何しろギルガメッシュは絶対的な英雄王である。人間ごときの提言など彼が受け入れるはずもなく、そうして思いのままに我が物顔で居座られることへの不快感ときたら、一体どれほどのものであっただろうか。
 よりにもよってアーチャーのクラスを得て現界してしまったことがどうやら凶と出てしまったらしい。もっとも、一番の被害者はこうまでして不遜なサーヴァントを引き当ててしまった時臣の方なのだろうが、不思議と綺礼は師へ同情する気も起きなかった。当然と言えば当然かもしれない。主従関係を結んでいるわけでもない英霊が毎日のように入り浸り、手当たり次第にコルクの詮を抜いているとあっては。滅多に感情を表に出さない綺礼でさえ、半ば苛立ちが表れているようにも感じられる。無論、ギルガメッシュにとってはそれこそが狙いであったのだ。

「どうした、綺礼。そのようなところへ立っておらずとも好きなように寛げばよかろう。ここは他でもない貴様に与えられた部屋ではないか」
「生憎と、他人と同じ空間を共有するという行為自体が好かんのでな。……さっさと時臣師の元へ戻ったらどうだ、アーチャー」
「我があれをつまらぬ男と認識していることくらい、貴様も理解しているのならば何度も同じことを言わせるな。王に徒労を強いるとは一体どういう了見だ?」

 どうやら時臣の名を出すだけでも癪に障るらしいところを見ると、今日の英雄王は普段以上に機嫌が悪いようだ。加えて、今しがたの綺礼の態度もお気には召さなかったらしい。赤い、血に濡れたような瞳を細め、僅かに眉を顰めるギルガメッシュの表情は、この世のものとは思えないほどに妖艶な美しさを秘めている。彼に魅せられてしまえば最後、天上の清らかなる乙女たちさえその身を焦がすような想いで胸を締めつけられることだろう。綺礼にはどうでもいいことであったが、なるほど、王が人ならざる魔性の持ち主であることは合点がいく。
 万物の頂点に立つ英雄王の鋭い眼差しは、下から見上げられているにもかかわらず、どうにも数メートル上から見下されているような錯覚すら感じさせられた。だが、目の前で金粉を惜し気もなく撒き散らすギルガメッシュを前にしても綺礼が物怖じすることはない。むしろ部屋の主である己の方がどう考えても優位であると、そう信じて疑わない。それは決して過信などではなく、あくまで彼にとっては事実でしかなかった。
 だからこそ、とも言えよう。ギルガメッシュは言峰綺礼という男に純粋な興味を抱いたのかもしれない。己を王でもなく、ましてやサーヴァントでもなく、対等な、いや、むしろそれ以下の存在と見做すこの愚かな青年が、どのような表情で苦悩し、絶望し、嘆くのか。その眼で確かめたいと思った。

「聞いているのか、綺礼。我への非礼を詫びよ」
「貴様と交わす言葉は持ち合わせていない。消えろ」
「……ほう、師が愚かならば弟子もまた愚か、というわけか。いつの時代も人の世は嘆かわしいものだな。実に退屈だ」

 腰を屈め、ソファの近くへと転がった酒瓶を拾う綺礼の頭部に、嘲るかのように鮮やかな赤い色をしたシャワーが否応なしに降り注ぐ。アルコールと相まって鼻腔を擽るような甘い匂いが、じんわりと脳を刺激した。綺礼は瞬間的に現状を理解することはできていた。王が立腹した上でそういった行動に出ているのだとも、当然のことながら。
 髪の表面から毛先を伝い、額から頬、首筋、そうして敬虔な彼が身につけた暗い色合いのカソックへと染み込んでいく。面を上げた綺礼の表情はやはり募る苛立ちを隠せないようで、それでもまだ辛うじて出かかった言葉を喉の奥へ飲み干すだけの理性は働いていた。どうしてもこの男の前では自分にとっても未知の領域である本心を曝け出すことは避けたかったのだろうと思う。父にすら、妻にすら、師にすら、自身にすら見せたことのない姿を、よもやこのような場所で露わにするなどもっての外である。
 しかし、綺礼の思考などとうに見透かしているとでも言いたげな様子でギルガメッシュは不敵な笑みを湛えるばかりだ。如何にも禁欲的な神父がワインの粒を滴らせながらこちらを睨みつけるといった光景は、何とも言えない耽美さを演出しているようにも思える。それは綺礼の掻き集めた最高の美酒たちよりもずっと味わい深く、濃厚であるに違いない。せっかくこの場に居合わせたのだ、どうせならば王の酒にも匹敵するほどの味をその舌で堪能せねばなるまい。
 獲物を狙い定めた蛇が如く、ギルガメッシュの伸びた腕が綺礼の強情な輪郭に触れる。零れ落ちた酒はまるで媚薬のように甘い。その身体を流れる血はより甘いのだろうと、英雄王は喉を鳴らして濡れた肌へと舌を這わせた。

「悦べよ、雑種。王たる我がこの手で罰を与えてやるのだからな、これほどの幸福など他を差し置いてあるまい」
「……ッ、貴様、この期に及んで、このような……」
「さあ、口を開け。お前に極上の蜜を喰らわせてやろう、綺礼」



(111219)





「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -