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 陽が完全に沈み、夜空を月光が照らす頃合い。もう夜も更けるというのに、時臣はいまだ就寝の準備にも取りかかっていなかった。本棚に並べられた無数の魔道書から何冊か厳選して抜き取り、机の上に積み上げて何やらひたすらに目を通している。これはもはや彼にとっての習慣のようなものであった。
 一流の魔術師である彼は当然のことながら魔道に精通しており、この世のありとあらゆる魔術について知らないことなど一つもないと断言してしまっても過言ではないほどだ。にもかかわらず、昼夜を問わずこうして魔道の勉学に励むのは時臣が人一倍努力家であるということも影響しているかもしれない。すでに頭に入っていることも、文献を読み返すことによって新たな発見を得られることもある。彼には魔術がすべてであった。なればこそ、ひたむきになるのも無理はない。
 そうして完璧な魔術師として君臨することは、彼の娘にとってもよい刺激になるはずである。今や、遠坂の娘は凛一人きりだ。だからこそ彼女にも、せっかく生まれ持った稀有な素質があるのだから、自分のような魔術師として遠坂の家督を受け継いでほしいと願ってしまう。凛もまたそんな父の期待に応えようと、幼いながらも懸命な姿勢である。素晴らしいことだ。
 しかし時臣は決して凛を甘やかしたりなどしない。むしろ厳しいくらいが彼女にはちょうどよいくらいであると彼は考えている。無暗に叱りつけるといった意味ではない。己への過信ほど怖ろしいものはないのだ。自信をもつことは大切だが、慢心してはならない。そのための家訓でもある。もちろん、凛は時臣の自慢の娘だ。誰よりもそのことを理解しているであろう。そうであるから、敢えて時臣は娘に多くを語らない。彼女を信頼しているからこそ、口に出さずとも理解してくれると、そう確信しているのだ。

「……凛?」
「あ、……すみません、お父様……」
「どうした。眠れないのか?」
「はい……」

 本音を言えば、まだ明かりの漏れる父の部屋が気になって仕方なかっただけの話であった。しかし凛はそうとは告げず、寝間着のまま、眠い目を擦るふりをしてそっと扉を開けたのだった。厳格な父のことだ、それなりのお咎めも覚悟していた。それでも時臣は凛に対して怒りもせず、彼女の大好きなやさしい笑みを浮かべ、おいで、そっと手招きをする。
 夢でも見ているのだろうかと思った。最近の父は何かにつけて忙しいらしく、以前よりもさらに言葉を交わすことが難しくなっていた。けれど自分が我儘を言って困らせるわけにもいかず、凛は自らの胸の内に秘めた思いをひた隠しにし、敢えて時臣との交流を避けていたのだ。それはまだ幼い彼女にとってつらいことであったかもしれない。しかし凛には遠坂家に生まれた魔術師としての覚悟がすでに備わっていたし、自らの運命を受け入れる決心もついていた。何も堪えられないほどの苦痛ではなかったのであろう。だからといって、凛とて父親の愛情を心の底で求めなかった日は一日たりともないわけである。

「学校は楽しいかい、凛」
「……はい、とっても。お友達もたくさんできました」
「それはよかった。やはりお前は私の自慢の娘だ」

 足元までおずおずとやってきた娘の身体を愛しそうに抱き上げ、頬を寄せる時臣は、今だけは一人の父親にしかすぎない。本来ならばそうすることさえ躊躇わなくてはならないのに、なぜだかこのときばかりは我が娘をありったけの力をもってして愛してやらねばならないと、魔術師ではなく、親としての自分がそう囁いたような気がして。
 思えばこうやって娘をその腕に抱くことさえろくにしてやることのできなかった己は、父親を名乗る資格もないのかもしれない。しかし、時臣は凛の鑑となるべき存在でなければならない。どんなときも彼女の前で弱い自分を見せることは許されない。それが唯一、遠坂に課せられた掟であるのならば、たとえこの先に不幸な未来が待ち受けているとしても、決してそれを悟られることなく気丈な振る舞いを見せることが時臣の父としての使命なのである。
 大きくて温かい掌が、ぽん、凛の頭に乗せられ、ゆっくりとあやすように撫でる。驚きのあまり彼女は声を出すこともできなかったが、父の瞳から何かを感じ取ったのか、そのまま天使のような微笑みを浮かべてその胸に顔を埋めた。

「……愛しているよ」



(111211)





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