哀しいスケープゴート | ナノ




 外出から戻り、帰宅した私が真っ先に目にしたものはとても信じられるような光景でなかったことは確かだ。それでも普段のように極めて冷静さを保とうとして、しかしそうした思いとは反して足元がふらつき、倒れそうになったところを必死で踏みとどまるのが精一杯であった。
 門をくぐった瞬間から、屋敷中にどことなく異質な空気が流れていることは感じ取ることができていた。何を隠そう、ここは私自身が住まう深山の邸宅である。この場所にはこまめに連絡を取り合っている弟子の綺礼ですら滅多に近寄らせることはなく、つまり自分以外の人間が立ち入ることなど決してありえないはずであった。だからこそ、というのももちろんある。だがそれ以上に、それの存在は私をひどく動揺させた。
 痩せ衰えた身体にかつての彼の面影はない。黒かった髪はすっかり色が抜け落ちており、途端に老いてしまったかのような印象さえ受けた。醜く歪んだ顔を一瞬見ただけでは、その正体を見抜くことはできなかっただろう。僅かに上げた呻き声が私の記憶の中の間桐雁夜と一致しなければ、いや、そうしたところですぐには信じられなかったかもしれない。それほどまでに変わり果てた彼の姿がそこにあった。
 葵の幼馴染みということもあり、昔の私はそれなりに彼との接点をもっていたような気もする。だが、それも雁夜が間桐の家を飛び出す前までの話だ。魔術師としての人生を否定し、逃げ出した彼は落伍者の烙印を押され、当然のことながらもう二度と顔を合わすこともないと思っていた。
 しかし、此度の聖杯戦争においてその手に令呪を宿し、あろうことかバーサーカーのマスターとして私と敵対することになろうとは。彼が御三家の血を引く人間であることに変わりはないわけで、考えてみればそれも自然なことではあったのだが。私からしてみれば、一度魔道を捨てた男がこうしてふたたび魔術師として表舞台に戻ってくるなどと、恥知らずも甚だしいとさえ思える。そういう所以もあって、彼との直接的な対面を今まで敢えて避けてきたわけであったのに、一体これはどういうことなのか。
 考えるに、雁夜ごとき矮小な男がここまで自力で辿り着くことは不可能に等しい奇跡だ。彼の身体は間桐の秘術である刻印虫に蝕まれており、その上、サーヴァントであるバーサーカーにまでなけなしの魔力を吸収されることによって極限ともいえる状態である。ならば瀕死の雁夜をここまで運んできた人間が他にいるということだろうか。この場所を知る者は、私を除けばただ一人。だが、どうして彼がそのような行動に出るのか肝心の目的が判然としないあまりに、確証がもてない。
 時折激しく咳き込んで床に血と小さな蟲とを吐き出す雁夜へと一歩、近づいてみる。どうやらそれは意識外での行動のようで、彼は間違いなく気を失っているらしかった。自分と彼との魔術師としての力の差は歴然だったが、それでも彼には何か違う意味での脅威を感じずにはいられないのが本音であったので、思わず安堵して胸を撫で下ろしてしまう。背後に迫っていた影にはまったく気づかないで。

「随分、遅いご帰宅だったようですね。時臣師」
「ッ……! 綺礼……、なぜここへ?」
「それよりも聞きたいことがあるのでは? たとえば、そこに転がっている無様な男について、など」

 ひとたびその屈強な腕に捕らわれてしまえば、私などではまったく太刀打ちもできまい。もともと彼は教会の代行者として常に戦場に身をおいてきた人間である。魔術師としては当然私よりも遥かに劣るが、武人として評価するならば確実に手練れの領域であろう。その自らの弟子に今拘束されている事実をどうにも真に受けることができず、やはり私は戸惑うことしかできない。
 実のところをいえば、こうして綺礼に身体の動きを封じられるのは別段初めてというわけではない。だから、なのだろうか。身動きがとれないにもかかわらず、私がこれといった焦りを感じることはなかった。いつもの戯れ、と称してしまえばその関係を認めてしまうことにもなるが、致し方あるまい。私と綺礼との間には少なからず肉体関係をもった既成事実が生じている。同意の上での出来事だ、仮に私が妻帯者であるとしてもたいした問題にはならない。それが妻を蔑ろにする理由などには成り得ない。今は事情があって別居している身だ、仕様のないことである。などと自分に言い聞かせては若干の罪悪感も覚えてはいたのだったが。
 いや、今はそんな話をしている場合などではない。おそらく先ほどの言い方からして、雁夜をここまで運んできたのは綺礼に間違いないのであろう。しかし、わざわざ彼を私の目の前に引きずり出す意味が理解できない。綺礼は私を援護する立場にいる。道中で雁夜を見つけたとして、その場でどうにかして息の根を止めるというのが筋のはずだ。実際、マスター同士の勝負に縺れ込めば綺礼の圧倒的勝利が目に見えている。私は戦わずしてバーサーカーを敗退させることができる、それなのにこの状況は。

「とにかく、手を離しなさい。綺礼」
「残念ながら、その命令には応じかねます」
「何を、……! う、っ」

 がぶり、まるで肉食獣が獲物を食らうかのように、綺礼の鋭く尖った犬歯が首筋にしっかりと食い込む感覚がした。仮にも師である私に対して何という狼藉であろうか。普段の彼ならば性行為においても、このような乱暴を働くような真似はしない。何より、私という人間がプライドを傷つけられることをもっとも嫌っているということをよく理解しているからであろうと思う。
 綺礼はこの三年間、私に師事し、実に従順な弟子へと成長し、駒として、私の下でこれからもよい働きをするはずの男だ。師に歯向かうような真似をするわけがない。それが自らにとって何の得にもならないことを彼自身よくわかっているのだから、当然のことである。ならばこの行為の説明はどうつければよいのか、それこそ私には理解できない話だ。
 晒された肌がひどく痛む。いくら一流の魔術師といえど、私には実戦の経験がほとんどない。ましてや傷を負ったことなど尚更。だからこそ余計に、たったそれだけの痛みが呆気なく全身を支配してしまうのかもしれない。固く結ばれていたリボンタイはもはやそこにあらず、シャツのボタンもいくつか外され、胸元が露わになった状態だ。しかも目の前には、意識こそないものの、かつての悪友が転がっているという最悪な光景である。それはとても許しがたい屈辱であった。
 やめろ、譫言のように繰り返す言葉も綺礼の耳には届いていないのか、それとも聞こえないふりをしているだけか。どちらにせよ抵抗の術を持ち合わせていない私にはそうすることで手一杯であったのだが、特にこれといった効果はないようであった。耳朶を舐め上げる舌の温度にぞくりと背筋を嫌なものが駆け抜けていく。
 違う、綺礼は。こんなふうに私に触れたりしない。私の命令を突っ撥ねたりしない。彼は優秀な弟子であって、よき理解者であって、それでいて隙間を埋めてくれる大切な存在であって。

「きれ、……ぁ、や、め……っ……ふ、ぅ……」
「……つかぬことをお伺いしますが、導師よ」
「……?」
「普段よりもよい声を出しておられるのは、あの男の存在が関係しているのでしょうか」

 途端に、心臓を鷲掴まれたような妙な寒気がして思わず身体が震えた。綺礼の声が耳のすぐ後ろで聞こえたから、というのもある。だが、本当の理由は。倒れたまま動かなかったはずの雁夜の手が、ぴくり、反応した。そちらへ視線をやってはならないと本能が語りかけてくるのもわかってはいるのに、なぜだか。
 ぐぐ、と重い頭を上げた雁夜のこちらを汚らわしそうに睨み据える視線が私そのものを射ているような気がした。見るな。そう口にしようとした言葉は喉の奥に消え、悲鳴に変わる。片腕で器用に私の両腕を纏めておきながら、空いたもう片方のそれがねっとりとした動きで腰を撫で回すのだ。綺礼と二人きりであったならばまだ、堪える必要もなかった。それが今、私を監視している濁りきった眼球の存在によって、自らを制止しなければならない状況に陥っている。
 よりにもよってこんな男の前で己の恥ずべき姿を晒すことになるとは思いもしない。いや、信じたくはないがこれが綺礼の策略であったのだろう。私に何の恨みをもっているのか知ったことではないが、こうすることがもっとも効果的であると確信した上での行動に違いない。
 雁夜が私に向ける軽蔑の眼差しは、本来ならば私が彼へと向けるものであったのに。なぜ、私は信頼していた弟子に裏切られてまでこのような辱めを受ける羽目になってしまったのか。悔しさのあまり舌を噛み切ってしまいたい衝動に駆られるも、それができるほど私は度胸のある人間ではなかった。

「よく見ておけ、間桐雁夜。己の憎む男の乱れる姿を。そして覚えておくがいい。……次は貴様の番だ、とな」



(111208)





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