影追いエトランゼ | ナノ




#綺礼→時臣前提
#ギル時描写あり




 恋と呼ぶには幼く、愛と呼ぶには爛れている。綺礼が時臣に対して抱いていた感情の名は彼自身からしてみてもひどく度し難いものであった。そもそも今まで二十年余り過ごしてきた無気力な人生の中で、胸の内にその火が燃え上がったのはこれを除けばただの一度きりである。
 妻のことは愛していた。というよりも、何に対してもただひたすらに無感動で心を動かさない彼に、愛そのものを教え与えてくれたのが今は亡き彼女であったという話だ。自らの師に妻の姿を投影しているわけではない。たとえ時臣がもう三十路近い年上の男性であるにもかかわらず、非常に美しい顔立ちをしている事実があったとしても。おそらくそのようなことはまったく重要ではない。
 しかし、彼の澄んだ宝石のような瞳、十分に潤った唇、絹のような肌、白魚にも似た細い指先、それら遠坂時臣という人間を構成するすべての要素が綺礼の眼には何か特別に映った。ワインレッドのスーツの下に隠された生身の肢体をその頭に思い浮かべた瞬間、綺礼はすぐさまそれを振り払うことができなかった。神に仕える者にあるまじき煩悩の誘惑が、だがしかし彼は心地よいとさえ感じる。己の魔術の師の身に纏う衣服を剥ぎ取り、曝け出された裸体を荒々しく掻き抱いてやれば彼はどんな表情をするのだろうと、綺礼の脳内ではいつもよからぬ悪巧みがぐるぐると旋回していた。
 もちろん実際に行動に移すことはない。今は第四次聖杯戦争を控えた大事な期間である。遠坂の悲願をその手に得るため、時臣も最強のサーヴァントを従え、おまけに綺礼という駒を存分に利用するための計画もしっかりと企てているのだろう。師の邪魔立てをする気はまったくといっていいほどない。とりたてて聖杯への願望など持ち合わせない綺礼にとって、戦争に勝とうが負けようがどうという感慨もなかったが、父を前にして時臣の勝利を全力で掴むことを誓ってしまった建前もある。
 元より綺礼は純朴な青年であった。さすがは聖堂教会の神父といったところか。己の使命は最後まで全うする義務があると信じて疑わないらしい。頭の中では貪欲な獣じみた下劣な思考を巡らせていながら、そのあたりはしっかりとしている。しかし、というのも、実のところは本音というわけではない。
 自らの人間性を崩壊させてでも時臣の身体を暴くことなど赤子の手を捻るように容易い。所詮は綺礼も一人の人間だ。箍が外れることも当然あるだろう。それでも己の欲心に打ち勝ち、暴走しようとする理性を制御できていたのは、この三年という月日の間で彼の気持ちが偽りのない本物の愛情に変化してしまっていたからである。
 出会った当初から比べればその思いの丈は歴然の差であった。時臣は敬愛する師であると同時に、綺礼の中で特別な存在として一際輝きを放っていた。もちろん当の本人がそれを知る由もない。だが綺礼とて、その行く宛もない感情をどうにかしようとは決して思わなかった。考えればすぐにでもわかることだが、時臣には妻も娘もいる。対して自分は一介の弟子。諦める、というのも少し妙だ。最初から綺礼にはその間へ割り込む権利すら与えられていなかったのだから。

「綺礼。貴様には心から欲するものがないのか? 掠奪してまで手に入れたいものが」
「そんなものはない。私は何も求めなどしない」
「……ふ、ならばそうして高みの見物でも決め込んでいればよい。我には貴様の行く末が手に取るようにわかるのだが、な」

 いつか、気まぐれで自室を訪れた金色に光り輝く英雄王とそのようなやり取りを交わしたことをふと綺礼は思い出した。飲み散らかされたワインボトルを一本ずつ片付けながら、彼は我に返る。あのときすでにギルガメッシュには綺礼の心が読めていたというのだろうか。表情も変えることなく、声色も変えることなく、ただいつものように生きることに疲れたような昏く濁った瞳をした己を見て。もしそうであったならば、なるほど伊達に数百の時を超え英霊としてこの世に現界したわけでもなかろうと、綺礼は純粋にあのサーヴァントを称賛したであろう。それも彼の与り知らぬうちに水面下で推し進められてきた行為はまったく度外視した上での話であったのだが。
 一口に魔力供給といってしまえば、この行き場のない思いもやり過ごすことができたのかと聞かれれば、素直に頷くことはできないだろう。そうであったとしても、やはり綺礼はあのサーヴァントに堪えきれない憤りのようなものを抱いている己に深く嘆息した。
 ギルガメッシュは夜毎、時臣のしなやかな肢体を乱暴に揺さぶり、呼吸も儘ならない彼へととどめを刺すように種を植えつけるのだ。それは一種の義務的行為であったのかもしれない。事実、時臣は綺礼にそれが露見したときについても別段驚きもしなかった。もともと隠していたつもりもなかったのだろう。家人を払った深山の邸宅には、稀にそうして綺礼が訪れる他は誰の足跡もない。その行為は人目を憚ることなく堂々と行われていた。あの日、それを偶然目にしてしまった綺礼から言わせてみれば知りたくもない残酷な現実でしかなかったのに。
 僅かに表情を曇らせた弟子を前にして、師は尚も優雅だ。本来ならばすぐにでもその手に持ったグラスを奪い取り、頭の上から中身をぶち撒け、相手が抵抗の意思を見せる前に陵辱の限りを尽くしてやるつもりではあった。けれどやはり、こんなときにでも綺礼の指はぴくりとも動くことなく、時臣に向けて軽く頭を下げただけでその場を後にしてしまった。
 ふわり、風に乗って黄金の塵が周囲を舞う。やがて音もなく姿を現したご機嫌な英雄王に、綺礼が言葉をかけることはない。そこには怒りも悔しさも悲しみも、何もあるはずがなかった。

「あれはひどく退屈な男だ。だが、この我が直々に色の素養を見出してやったおかげでこうして王の役に立てているというものよ。どうだ、綺礼。貴様の求めてやまなかったものは手に入ったのか?」
「……言っただろう。私には欲しいものなどないと」
「ほう? やはり貴様は我を愉しませてくれるのだな。面白い」

 妖艶に微笑み、そうして風のように姿を眩ました英霊の立っていた空間に視線をやる。あともう少しのところであった。ぎりぎりまで抜きかけた自慢の黒鍵をふたたび収め、綺礼は危うく冷静さを取り戻す。人間が力でサーヴァントに対抗するなど自殺行為も等しいことは理解できていたはずであるのに、なぜこうも感情が先立ってしまうのか。あの英雄王はどうやら趣味の悪いことに綺礼の苦悩する姿を視界に焼きつけ愉悦としているようであったから、雑種の出過ぎた真似にも寛容であっただけである。下手をすれば一瞬で刻まれていたようなものだ。
 言峰綺礼はそのとき初めて、自分がこんなにも人間らしい顔をできるものなのだと理解することができた。扉の向こうの師は何も知ることはない。よもや綺礼がそのようなあさましい感情を心の内で煮え滾らせているなど、もっての外である。





 以上が事の成り行きであると説明したところで、果たしてこの男が理解するかといえばそれはまた別の話となるだろう。綺礼は教会の祭壇に身体を預け、ひたすらに息を切らす目下の黒いスーツをまじまじと眺めた。
 すでにサーヴァントを失い、マスターとしての権限を失った彼には、こうして聖杯戦争へと身を投じる必要は皆無のはずである。表向きには師である遠坂時臣と仲違いしたことになっているのだから、こうして自分を狙う意味も本来ならば有り得ない。と、一瞬頭ではそう考えた切嗣であったが、何よりこの男が己のもっとも敵視している相手であることをようやく思い出した。
 言峰綺礼は危険な男だ。今も切嗣を感情の籠らない眼でじっとりと見下しているほどだ、何を考えているかなど到底わかりはしない。なればこそ、まだ相対するのは早計であったのだ。いずれ戦わねばならぬ因縁の相手だったとしても、それはすべてが決着する瞬間であるべきであったのに。とはいえ、これも不可抗力の事態であった、などといえば考えが甘いだろうか。
 予測はできたはずだ。若くして代行者として名を馳せる彼が闇夜に紛れて背後から襲いかかるなど、その瞬間にならずとも、切嗣ほどの猛者ともなれば容易に避けることはできたであろうに。ここ数日、ろくな睡眠もとらずに日がな一日動き回っていたことへの代償とでも呼ぶべきだろうか。何にせよ、こうして綺礼の独壇場にも等しい聖堂教会まで連れ込まれてしまえばどうしようもないのが正直なところである。
 セイバーはマスターの危機を悟ってここまで飛んでくるだろうか。いや、あれは切嗣を信じてなどいない。あの少女の英霊のプライドをそこまで傷つけておいてそのようなことを言うのは我ながら非道なものとも考えるが。それにこれは完全な危機的状況とは言えないだろう。相手がサーヴァントであるならばまだしも、同じ人間である。それでいて切嗣は、数多の戦場を駆け抜けた類まれなる武人の一人でもあった。サーヴァントの危機感知能力が如何ほどのものなのか彼にはわからなかったが、セイバーがこの場所へ駆けつける可能性は一割にも満たないという確信がある。もちろん、声を高らかにして言えるような誉れではまるでない。
 さて、それにしてもどう動くべきか。初手を誤ればその次の行動にも支障をきたしてしまう。戦場とはそういうものだ。どんな小さな挙動も目の前の男は見逃してなどくれないであろう。先ほどから切嗣の表情を探るよう投げかけてくる視線の鋭さは安定している。これは、牙を剥く寸前の獣にも似ている。極めて慎重に、だがしかし油断は怠らない。己のすべての動きは、一メートルにも満たない場所から綺礼に監視されているのだと。
 言葉は通じるだろうか。通わせてみる手立てはあるだろうか。交渉の余地、はおそらく残されていないだろう。それにしては殺気など微塵も匂わせていないのがまたおかしな話である。切嗣は訝しげに眉を寄せて綺礼へと怪訝そうな視線をやった。小さく吐いた息は白く、室内とはいえ真冬の突き刺すような寒さがコートの上からでもひしひしと実感できた。

「衛宮、切嗣」
「……一つだけ聞きたいことがある。お前は何の目的をもって僕を捕らえた?」
「それを貴様が知ったところで意味などあるまい」

 ならばすぐにでも殺してしまえばいい。八極拳を体得した彼であるならば、素手で切嗣の首を捻り上げることも容易かろう。あるいは変幻自在に伸縮するあの凶刃で心臓を一思いに突いて息の根を止めることも可能だ。それともゆっくりと痛めつけ、嬲り殺していくのが彼のやり方だとでもいうのだろうか。何でもいい。早く行動に出てもらわねば対処法にも困難を極めるというものだ。
 理解しがたい相手というものは、切嗣にとって非常に脅威と成り得る存在である。おそらくこの男には何を言ったところで挑発にはなりもしない。その黒々とした瞳は大きな闇を抱えているように見える。まるで自分にも似ていると、そのとき切嗣は感じたのかもしれない。もしそうであったならば、やはり生かしておくことはできない。衛宮切嗣という男の最大の敵は、昔から自分自身でしかなかった。十を生かすために一を殺す、偽りの正義を掲げて後ろも振り返らずにただ戦い続けてきた自分が、切嗣は何よりも憎くて仕方がなかったのだ。
 ふと、綺礼の手が切嗣のスーツの胸元を掴み上げる。ふわりと身体が浮き上がったような感覚がした。事実、祭壇に凭れかかっていたはずの肢体はそれを離れ、より一層綺礼の身体の方へと引き寄せられる。そしてごく自然な流れで唇を塞がれたことに、切嗣の瞳は当然のことながら見開かれた。今自分の目の前にいる男が自分に何をしているのか、唐突すぎる上に予想外の出来事に脳の回転も一時停止してしまう。ぴちゃり、濡れた舌が割り開いて口内に押し入ってきた。他人のそれが我が物顔で蹂躙する不快感。妻にだって、このような熱烈な接吻を受けた記憶がない。
 気づけば切嗣は空いた両の腕で力いっぱい綺礼の身体を突き飛ばしていた。自分よりも一回り体格のいい彼の足元がバランスを失い、よろける。離れる間際に思いきり歯を立ててやったおかげで綺礼は唇から鮮血を滴らせていたが、その表情は一切変わることもない。ただ茫然と切嗣の顔を眺めるだけである。コートの袖で汚れを落とすようにごしごしと、先ほどまで彼と触れ合っていた部分を乱暴に擦った。僅かに血の味がする。言峰綺礼の血液だ。

「っ……どういうつもりだ」
「私には、確かめたいことがある。衛宮切嗣」
「確かめたい、こと……?」
「お前はただそこへ立ち尽くしていればいい。すぐに終わることだ」

 瞬間、それまで決して感じることのなかった言い知れぬ悪寒が切嗣の背筋を凄まじいスピードで駆け抜けていった。一見、綺礼の様子に大きな変化は生じていないように思える。決定的な違いといえば、その口元であろうか。先ほどまで真一文字に結ばれていた唇は真冬の夜空を照らす三日月のような美しい弧を描き、隙間からうっすらと歯までも覗かせている始末である。
 切嗣は、言峰綺礼という人物を今日という日まで実際に目にしたことがなかった。写真を見たり、妻や助手の口から語られる彼という男の本質を耳にしたり、結局はその程度の知識しか持ち合わせていない。寡黙で多くを語らない、謎のベールに包まれた代行者。だが、今この一瞬で切嗣は理解した。彼と自分との間に似通うものなど何一つありはしないのだと。
 言峰綺礼を構成するすべての歪みが群れを成して襲いかかってくる、たとえて言うならばそのような感覚にも似ていた。綺礼の筋肉に覆われた屈強な腕が切嗣の首を鷲掴み、ふたたび祭壇へと強く身体を打ちつける。衝撃で気管が詰まり、噎せたところへすかさず唇が重ねられた。咄嗟の抵抗は儘ならない。とりあえずは酸素を吸うことを最優先としたため、切嗣の腕は動かなかった。首を絞める力が徐々に強まっていき、意識が霞んでいく。だが彼が本気で自分を殺す気でないことは何となく切嗣にも理解することができた。その読み通り、次の瞬間にはまるで玩具に飽きた子供のようにあっさりと切嗣の首を離し、重力に従って崩れ落ちた身体を軽く蹴り上げる。
 ぐ、浅く洩れた悲鳴にぴくりと綺礼の頬が引き攣った。切嗣の表情は確かに苦悶に満ちている。いくら戦場に順応した肉体とはいえ、痛覚が失われているわけではない。相応の痛みは脳が感知しているはずである。それをなかったことにして内側に抑え込むことは当然可能ではあるが、今の切嗣にそれほどの余裕は残されていないということであろう。腹部を押さえて荒い息を吐き出す男に、そのとき綺礼の中の箍が解き放たれた音がした。

「……なるほど、ようやく理解できた。私の求めていたものが何であるのかを」
「ぐ、ぅ……っ、何を、言っている……?」
「やはりどう足掻いても私という人間は聖職者などとは程遠いところにいるらしい。……皮肉なものだな、」
「あ、あ……あああッ! ひ、ぎ……」

 すらりと伸びた黒鍵の光り輝く刀身が、切嗣の、腕を、脚を、腹を、順番に貫いていく。神経を殺してしまわないよう慎重に、的確に。ただ苦痛を与えるだけの行為。全身の至るところから夥しい量の血液が流出し、聖なる教会の床をひたすらに赤く染め上げていく。それはまるで赤い絨毯を敷き詰めたような、ある意味で幻想的な光景であった。
 喉が嗄れるまで低い呻き声を上げて悶える切嗣に、幼子へ向けるような愛くるしささえ抱き、思わず傷口を爪先で踏み躙る。充満した血の匂いが何よりも綺礼自身を興奮させた。味わったことのない悦びは感動にも似ている。綺礼は心の底より歓喜した。それが表情に出ることはなかったが、彼は今自らに与えられた極上の蜜を飲み干し、身を打ち震わせていた。
 不意にこちらを見上げる切嗣と視線が絡み合う。その姿を己の師と重ね合わせるだけで彼にとっては十分であり、また不十分であった。忘れかけていたやり場のない思いが込み上げ、熱が収束していくのを感じ取る。求めるもの、とは。綺礼は身を屈め、肢体を黒鍵で貫かれた哀れな男の顎を愛でるように掬い上げた。傷口を抉るよりずっと簡単で、それでいて切嗣を絶望の淵へと突き落とすことができる算段を思いついたのだ。

「さあ、そのあられもない姿を私の前で曝け出してみせろ、衛宮切嗣」





 それは、今まで切嗣が直面してきたどんな場面よりも地獄そのものに近かったかもしれない。数多の腐り落ちた屍が転がる血臭にまみれた戦場でさえ、この状況よりは遥かに生易しいものだろうと、そう考えてしまうのは烏滸がましいことだ。それでも切嗣は願わずにはいられない。一刻も早くこの腰を掴んで離さない無骨な手から逃れたいと。
 下半身を襲う鋭く、それでいて鈍い痛みはいまだかつて味わったことのないものである。尋常な生き方をしてこなかった切嗣も経験したことがない、否、今後も経験することのないそれは全身を引き裂くかのような激痛を伴う。だが、悲鳴を上げることすら彼は躊躇い、息を呑んで歯を食い縛り堪えた。そうでもしなければこの惨めな己の姿を認めてしまっているも同然のような気がして。
 無表情のままこちらを見下ろす綺礼とは目を合わさないように、ひたすら無意味に二酸化炭素を吐き出しては酸素を吸うだけの愚かな行為を繰り返す。死ぬことよりつらい屈辱を与えられてもなお、生を望む自分自身が情けないことは百も承知だ。今、舌を噛み切って自害するのは何よりも容易いであろう。しかし己の正義を全うすることへの情熱を燃やしつづける切嗣にとって、それは戦わずして敗北を認めることと同義である。
 今まで払った多くの犠牲をなかったことにしてはいけない。彼は背負わなければならない。死ぬべきではなかった人々の命を、人生を。そうして未来を紡いでいかねばならない。それこそが衛宮切嗣という男のすべてである。綺礼は何もかも理解した上で敢えて彼に絶望を強いるのだ。その悲痛に嘆く表情が見たいばかりに。
 どうにかして視線を逸らしつづける切嗣の顎を鷲掴み、強引に正面を向かせる。額には汗が滲み、目元には水滴が溜まり、与えられる痛みがもはや快感に変わりつつあることを決して頭で理解しようとはしない哀れな男の姿を、綺礼は単純に美しいと思った。その感情自体が歪なものであると、彼自身よくわかっていたのだろう。なぜそのような考えに至ったのか、一瞬頭を悩ませる。美しいものを美しいと感じることのできない、元より感性の壊れてしまった自分のことだ、理由などなく、ごく当たり前の思考なのかもしれない。
 想像してみればいい。この男が衛宮切嗣などではなく、遠坂時臣だったとしたら。瞬時に脳裏を過ったのは傲然極まりない黄金のサーヴァントの顔であったが、しかし綺礼は考える。信頼を寄せる舎弟に裏切られ、弄ばれ、挙句の果てに陵辱される羽目になった瞬間の時臣は、それでも自分の前で冷静さを保つことができるのだろうかと。どんなときでも優雅であることを第一とする師が、乱れ、泣き喚き、懇願する情景を思い浮かべただけで綺礼の全身は熱を持った。どくん、より一層体内に埋め込まれた性器が膨張したのに、思わず切嗣の唇から抑えていたはずの声が洩れる。

「ふ、ぅ、あっ……! はぁ、は、……ん……」
「犯されているわりには随分といい声で啼くものだな」
「ち、が……ひ、やめ、ろ、うあっ」
「私を離さないのはお前の方だろう、切嗣。この雌犬が」

 囁かれると途端に、きゅう、内部の締め付けが強まったように思え、綺礼は眉を顰めた。なるほどこの如何にも禁欲的な男はとんだ性癖の持ち主だったというわけか。汚らわしい。自分のことは棚に上げてもなお、神父は軽蔑の眼差しを送る。切嗣がどういった心境にあるかなど彼の知ったことではない。目の前にある光景だけが真実である。仮にも教会に所属する身で、神を深く信仰してやまない綺礼にはそれがひどく汚れたものに見えただけの話だ。
 一方で蔑むような視線を向けられた切嗣は、怒りと悔しさに我を忘れそうになりながらも理性だけは手放さないよう懸命に繋ぎ止めていた。何も、好きでこのような痴態を晒しているわけではない。初めて覚えた痛みに薄ら悦びなど感じたとしても、それは彼の本心ではない。相対する敵の前でどうして腰を振る必要があろう。
 切嗣とて、どうにかして振り払わねばならないと理解していた。それでも脳とは正反対に、身体は従順な反応を示す。愚かだとわかっていながら、快感を求めて疼いてしまう。今この場に妻や娘の姿があったとしたら、それこそ錯乱して命を絶ってしまいそうになるほどには屈辱極まりない現状に身を置いているというのに。

「よほど、私に壊されたいように見える」
「あっ、あ、う、ひぃ……いや、いやだ……うあ、あっ!」
「ならば期待に応えてみせろ。噎び泣き、情けなく縋ってみせろ。どうやら貴様のその表情だけは愛でるに値するらしいので、な」

 その後のことはよく記憶していない。そうする間もなく、突き上げられ、揺すぶられ、呼吸すら忘れて絶頂を迎えると同時に意識を手放してしまったのだから。己の腹の上に吐き出された白濁と、奥へとぶち撒けられた熱い残滓の感覚を最後に、切嗣はゆっくりと瞳を閉じる。
 綺礼はまるでつまらない喜劇を見せつけられたかのような、何ともいえぬ虚無感で胸を埋め尽くしていた。絶望に歪んだ切嗣の顔は、この世のあらゆる珍味よりもずっと美味であったことは確かだ。何度でも視界に焼きつけ、じっくりと堪能することができたならそれは幸せなことだろう。だが、まだだ。まだ何かが足りない。
 重い身体を動かし、ずるりと収められていたそれを引き抜く。結合部から溢れた精液が床を濡らす血液と混じり合うのをぼんやりと眺め、綺礼は無意識のうちに傷ついた切嗣の身体へと治癒魔術を施していた。百戦錬磨の武人といえど、結局はただの人間でしかない。あのままでは出血多量でそのうち命を落としていたことだろう。
 それにしても、今この場で殺しておけば今後の脅威には成り得なかったはずであるのに、一時の気まぐれであったとしても己は何をしているのであろう。物言わぬ切嗣の頬を撫で、感慨に耽る。これがもし時臣であったとしたならば、そこには異なる感情が生まれたのか。今夜もまたあの英雄王の下で切なくも色を帯びた声色で喘いでいるであろう師の姿を思い浮かべ、胸の内を渦巻くどす黒い空気に綺礼は言いようのない吐き気を覚えた。



(111206)





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