僕がずっと前から、 | ナノ




 ありったけの力を込めて胸元を掴み上げ、冷たく無機質な壁に真紅のスーツを容赦なく叩きつける。彼はそれについて特に何か反応を示すでもなく、黙ったきり目の前の半身を蝕まれた男をどこか呆れたような視線で見据えるだけだ。その態度がますます気に食わなかったのか、今度はしっかりと立場を理解させるかのように拳を作って頬を殴りつけた。醜い己のそれと違い、時臣の肌はひどく人間らしくきめ細やかである。手入れもよく行き届いているのだろう。一瞬、女のものと見紛うほどに彼は美しかった。幼い頃よりそうだ。元の出で立ちも影響してか、中性的な少年であったことを雁夜は覚えている。
 貴族の身の生まれである彼と自分とでは、元より相容れる存在に成り得るはずもないと、悔しくもあったが心の内では理解していた。自らの想い人が時臣と添い遂げることになると決まったあの日も、雁夜は無理矢理に笑みを浮かべて祝福の言葉を贈ったのだ。幸運にも自分の持っていないものの多くをこの男は最初から持ち合わせている。隣で微笑む妻と、いずれ授かるであろう子を、必ずやその掌が幸せにしてくれるだろうと。信じてやまなかったのもまた確かな話である。
 殴られた衝撃で唇の端が切れた。だがそれを拭おうともせずに時臣は沈黙を守っている。雁夜にはわからない。この男の考えていることが。一度も理解することなどなかった。結局わかりあえないまま、こういった関係になってしまった自分たちをもっとも悔やんでいるのは誰なのだろう。

「何とか言ったらどうだ」
「……雁夜」
「てめえのその顔、見てるだけで反吐が出るんだよ」

 そうしてまた数回、抵抗しない時臣の身体に拳をもってして鞭を振るう。切れた肌から血が吹き飛び、ぼろぼろのパーカーや爛れた皮膚に彩りを与えた。そこに雁夜の知る時臣の姿はない。非情な魔術師。聖杯を得るというただ一つの目的のためだけに、何物をも犠牲にする覚悟をもった彼の瞳に映るものは確かな信念だけである。そこには妻も娘も、当然のことながら自分もいない。
 いつもそうだった。時臣は雁夜と同じ目線の高さに立っていながら、誰のことも見つめてなどいなかった。遠坂家に生まれたその瞬間から受け継がれた宿命だけが時臣を動かす何よりの原動力であったのだ。雁夜が魔術師を嫌う原因はそこにもある。だから間桐を離れた。すなわち、彼の前から姿を消した。けれど思い出だけはいつまでも色褪せず、脳に深くこびりついている。共に語り合った夢の話。互いの家のこと。そして。
 今思えば自分はずっと時臣に執着していたのだろう、冷静にそう分析した。葵への想いが偽りというわけではない。あの幼馴染みは雁夜にとって唯一の救いに他ならなかった。魔術の道になど身を沈めてはならない、彼女だけは何としても守ってやらねばなるまいと。結果としてそんなささやかな願いすら葵に届くことはなかったのだが、過ぎたことを繰り返し後悔しても意味などはない。だが、あれから彼女に想いを馳せる一方で時臣の存在が気にかかって仕方がなかった。それは一種の愛情にも似た感情であったのかもしれない。雁夜は時臣を誰よりも信用していた。大切な友人であると思い込んでいた。たとえばそう口にしたところで、この男は眉一つ動かすことはないのだろうが。
 まだスタート地点から一歩も動けずにいる自分を置いて、時臣は、葵は、後ろも振り返らず前だけを見つめて歩みを進めていく。過去に縋りつく己はなんとみすぼらしく愚かしいだろう。今こうしてたった一人、大切な少女を守るために身を擲つ行為も元を辿れば結局は彼に起因するのだ。その事実が悔しく、愛おしい。

「君は、私を憎んでいるのか」
「……ああ、俺はお前が大嫌いだよ。時臣」

 口をついて出た言葉は半分正解であり、半分不正解であった。時臣は何か言いたげに視線を上げたが、またすぐに俯く。皺の寄ったスーツはくたびれ、知らずと解けていた青のリボンタイは地に落ちていた。雁夜の、胸倉を掴み上げた骨張った腕の力が収束していく。そうして指の隙間から零れ落ちていくものをふたたび拾い上げ、翳す。食らいついた唇からはよく知った血の味がした。


(111201)
BGM:天ノ弱





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