絶対命令権 | ナノ




 綺礼がその黒く、掌に乗るほどの大きさの小型の機械を時臣に手渡すきっかけとなった出来事は、ひとつひとつ挙げていくときりがない。それに、先祖代々、正統派の魔術師の血を受け継いできた彼がこんなものを受け取るはずがないと、綺礼にも当然のことながら理解はできていた。それでも今後、師の身の安全を第一に守らねばならない立場の弟子としては、無理矢理押しつけてでも渡すべきではあると考えた結果の行動である。
 つい先ほどまで目の前の、自分よりいくらか若い青年と他愛ない話に花を咲かせていた時臣だったが、しかしその見慣れない機械を前にするや否や、それきり口を閉じて開かない。考え込んでいるのだろうか。これがどんなにか危険で、自らに災いをもたらす文明の利器であるのかと。
 おそらく時臣はこの遠坂の家に生まれた宿命も関係して、まったくといっていいほど外の世界を知らない希少価値の高い人間だ。当たり前ではあるが、そもそもこれが何をするために用いるものであるかなど理解はしていないのだろう。何より彼は魔術を行使することにより生活のすべてを賄っているようなものだ。火を使うにも水を出すにも、コンロや水道の類すら利用したことがないくらいである。それほどまでに遠坂時臣は純血の魔術師であった。
 綺礼はそんな師を尊敬すると同時に、致し方ないとはいえ、そういった彼の性質にほとほと困り果ててもいた。少し時代を遡れば、時臣のような魔術師も大勢いたかもしれない。だが、現代においてそのような天然記念物にも等しい存在など、もはや一握りの人間にしか残されていないだろう。遠坂の家系はその中でも特に魔術師であることを誇りとして掲げているところもあり、魔術ですべてを解決する思想を強く根底に根付かせているのである。

「……それで、綺礼。これは一体何なんだい?」
「携帯電話といいます、時臣師」
「ふむ……しかし、私にこのようなものは……」

 案の定、時臣は綺礼に渡された機械を受け取ることを静かに首を振って拒んだ。わかりきっていたことだ。しかしここで引き下がるわけにはいかない。機械を嫌うのであればそれも構わない。彼自身の譲れない信念であるならば仕方のないことだ。だが、そうであったとしてもせめてこのくらいは。
 携帯電話など、今の時代、子供でも持ち歩いているようなもっとも身近な電子機器であり、日常生活には必要不可欠とされているアイテムだ。確かにそれを時臣は必要ないと言い張るかもしれない。けれど持っていてもらわねば、困るのは綺礼なのだ。
 以前、少し外出すると言って家を出たきり、日が沈むまで戻ってこなかった師のことを思えば当然である。綺礼の察したとおり時臣は広い街中で、自分が迷っていることにも気づかず平気なふりをして歩き回っていたという。遠坂の家訓に則れば時臣の判断は正しいかもしれないが、それにしても。迷い子を迎えに行くことすら、肝心の居場所を探す術を持ち合わせていなければ不可能なのだ。実際に綺礼が時臣を探し出し、やっとのことで遠坂邸まで連れ帰ったのには相当の苦労を要した。
 言ってみれば、綺礼も必死なのである。決して表情に出すことはないが、この危うげな師をどうして放っておくことができようかと、常に思考回路は目まぐるしく働いているのだ。

「面倒な設定はすべて終わらせてありますので、ご心配には及ばないかと」
「そういう問題ではなくてだね」
「……導師よ、どうかご理解ください」

 そうは言われても簡単に納得のできる時臣ではない。そもそも遠方にいる者同士が言葉を交わすのに、何もこのような機械に頼る必要はないと彼は考えている。すべて魔術を使えばどうということはない、何も問題はなかろう。それがどうしてこの弟子は、そうまでして自分にわざわざ強制などするのか、時臣には理解できない。
 彼らが師弟の契りを結んでもうすぐ二年となる頃合いであるのに、完全な意思の疎通はやはり困難を極めるようだ。こればかりは人間同士、うまくいかないこともある。だが、それにしてもこれだけ嫌悪を露わにすれば彼とて理解もしているはずだろうに。
 徐々に苛立ちを隠せなくなっていく己に、しかし時臣はゆっくりと言い聞かせる。常に余裕をもって優雅たれ。何を隠そう、自分に師事する弟子の前である。こんなことで憤り、動揺を見せるなど馬鹿馬鹿しい話ではないか。もう一度冷静に話し合えば綺礼もわかってくれるはずだ、彼は優秀な男である。
 時臣は、すう、大きく息を吸い込んだ。瞬間、胸元のリボンタイが軽く引かれる。やや驚いて目を瞠ると、眼前に綺礼の端正な顔が広がっていた。

「受け取ってくださらないとおっしゃるのなら、リボンの代わりに首輪をつけて鎖に繋いでおくことも考えますが?」
「……わ、わかった。ありがたく受け取っておくよ……」
「そう言っていただけて何よりです」

 どうしてか、瞬間的に自らの危機を悟ったような気がして、時臣は横に振ろうとした首をこくこくとただ黙って縦に振った。あらためて頷いた綺礼の横顔をそっと眺めてみる。彼の瞳は決して笑ってなどいなかった。



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