すべて擲っても私は | ナノ




#原作ネタバレあり



 アインツベルン城の昼下がり。深い森に囲まれたこの地には陽の光すらまともに差し込むことはないが、枝に止まった小鳥がぴいぴいと囀る声色はよく耳にすることができる。椅子に腰かけ、机に向かい、よくわからない機械のボタンを先ほどからかたかたと忙しなく叩く夫の姿を横目に、アイリスフィールは部屋の窓を静かに開いた。冬独特の、冷えて研ぎ澄まされた空気が彼女の銀髪をふわりと揺らす。ほのかに香る品のいい香水の匂いに、画面へと顔を向けていた切嗣がふと視線をそちらへ向けた。
 真冬の酸素を身体いっぱいに取り込んで少し寒そうに肩を震わせるアイリスフィールの小さな背中。己が今一番大切にしているもののひとつ。けれど、切嗣の成し得ようとしていることは結局は彼女自身を殺してしまうことに繋がる。アイリスフィールはすべてを理解した上で切嗣と契りを交わし、共に戦い抜くことを誓ってくれた。だからこそ、こういったふとした瞬間に彼は自分の心が痛むのをどこかで感じ取るのだ。振り返った妻の笑顔を目の前にして、決して笑うことのできない己が悔しくてたまらず、人知れず強く拳を握りしめる。
 相も変わらず険しい表情の切嗣に、しかしアイリスフィールは依然として微笑みを絶やさない。まるで聖母のようであった。彼女は人間として生を受けた身ではなかったが、誰よりも人間らしく、切嗣や娘のイリヤスフィールにありったけの愛情を注いできた。今までも、きっとこれからも。聖杯が降臨するそのときまで。

「ねえ切嗣、お茶にしましょう。舞弥さんからおいしいお菓子をいただいたの」
「舞弥が? 意外だな」
「あ、私としたことがつい……あのね、このことは彼女には黙っていてね。あまり他の人に知られたくはないようだったから」

 彼女の言うことを一度で理解できなかった切嗣は、無防備な動作できょとんと軽く首を傾げる。そんな夫の何気ない仕草すらアイリスフィールには愛おしく感じられるらしい。常に戦いに身をおき、心の休まる時間をもたない夫を少しでも支えることができたなら、それは彼女にとっての幸福に他ならない。
 アイリスフィールは家族を守ることを自らの存在意義としている。いずれ消えゆく運命ならば、せめてそのときまでは。ホムンクルスとして生まれた自分に愛を教えてくれた切嗣をその腕の中に抱きしめてやりたいと思う。今この場にはいない、遠い空の向こうで暮らすイリヤスフィールを思いながら、ふたたび彼女は窓の外へと目を向けた。
 吐く息は白く、細い指先は驚くほど冷たい。切嗣は妻の手を壊れ物を扱うかのようにやさしく包み込み、そっと開け放たれた窓を閉めて鍵をかけた。彼女はどこにも逃げやしないのに。その姿がなぜだか、籠から羽ばたく寸前の羽根をもがれた哀れな鳥のように見えてしまい。みすみすアイリスフィールの生を奪ってしまった当の本人がそう願うのは赦されないことかもしれないけれど、それでも。

「……好きだよ、アイリ。君のことが」
「……切嗣? どうしたの?」
「ごめん、何でもないんだ。……何でも」

 軽く額に唇を落とし、何かを悟ったように呟く夫にアイリスフィールの瞳が揺れる。この人は重いものを背負いすぎた。つらい現実をその目に焼きつけすぎた。すべてを知るにはあまりにも若く、あまりにも幼く。かつて彼の愛した人が彼の目の前で命を落としたその瞬間でさえ、感傷に浸ることもできず。けれど心のどこかでは救いを求めていたに違いない。
 なればこそ、自分の前でだけはどうかただの人間である衛宮切嗣でいてほしい。ありのままの彼を無言で抱擁することこそが、自らに与えられた使命であるとアイリスフィールは自覚していたのだから。母親が幼子にするように、やさしく頭を撫で、背中をさすってやりながら、彼女は儚げに唇を震わせた。
 衛宮切嗣に愛され、衛宮切嗣を愛したことを、きっと彼女は忘れない。たとえ自分が自分でなくなってしまうそのときがすぐそこまで近づいてきているとしても、アイリスフィールはただ微笑みを湛えて、夫の掌を握ってやろうと思った。



(111122)
いい夫婦の日記念





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