人面獣 | ナノ




 重い身体が強引に揺さぶられる感覚に切嗣は閉じた瞳を決して開こうとはしなかった。いや、そうしてしまうことで自分が現実に引き戻されてしまうことを彼は知っていたのだ。生温い風がぬるりと頬を撫でていく。嗅ぎ慣れた鉄の匂い。自らの放った火薬の匂い。土の、匂い。
 これはきっと悪い夢だ。今目を覚ましてそれと真っ向から向き合うくらいならば、視界を遮ったままもう一度眠りに落ちた方が、おそらくは幸せに違いない。しかし全身を襲う鈍痛に、切嗣はとうに精神を擦り減らしていた。正体のわからない痛みほど怖ろしいものはない。
 ならば、と瞑っていた目を開けようとして、彼はようやく思い出す。己の置かれた屈辱的な状況と、この場を支配する人物の名を。見てはいけない、理解してはいけない。そうすることにより抑えていたはずの恐怖が心の奥底からせり上がってきてしまうことを、切嗣は確かにわかっていたはずなのに。思考回路がすべてを掌握する前に、彼の瞳は開かれてしまった。

「……っ、ぐ、あ」
「貴様ほどの男がこれしきのことで意識を飛ばすとは意外なこともあるものだ」
「あ、う……っ、言峰、……綺礼……」

 口から吐き出した単語は自分が発したものに相違はない。しかし自らそう言葉を紡いだ瞬間、切嗣の全身は恐怖と嫌悪により縛りつけられた。語りかける声は背後から聞こえる。それもすぐ耳元で、だ。振り払い、突き飛ばしてやりたい。切嗣が誰よりも恐れるこの言峰綺礼という男を。しかしそう願う内心とは裏腹に、まったく身動きがとれないのだ。なぜか、理由はすぐにわかった。
 激しい戦闘でぼろぼろに傷ついた黒のスーツは見るかたちもなく、ボタンは飛び散り、隙間から肌が覗いている。おまけに、綺礼の得物によって切嗣の両腕は完全に封じられていた。皮膚と骨を貫通し、串刺しになり使い物にならなくなった腕をぼんやりと見やり、少しでも動かそうと試みるものの、それはやはり叶わない。ぼたぼたと流れ落ちるだけの血液は切嗣の足元に真っ赤な水たまりを作っている。
 もはや感覚はない。痛みを感じないわけではなかったが、神経がやられてしまっているのだろう。道理で自分の身体でないような違和感を覚えたわけだ。これではどうしようもない。逆転の余地などどこにも見つからない。ひゅうひゅうと喉が鳴り、寸前で保たれてはいるものの意識はふたたび闇に沈んでしまいそうだ。
 ただ、確かなことといえば、衛宮切嗣は言峰綺礼との勝負に敗北したのだという事実だけ。それならばもうこれ以上彼が息を続けることは不可能に近いだろう。最初から綺礼は切嗣にのみ狙いを定めていたのだから。
 殺される。頭では理解していたつもりだったのに、いざその現実を突きつけられれば自然と恐怖も生まれるわけであって。だが、もうすでに限界が近いのだろう。そのようなことを考える暇もなく、切嗣は徐々に微睡んでいった。下肢に尋常でない痛みを覚えるまでは。

「ッ! ひ、ぎ……!」
「どうした? もっと思う存分に喘げばいいだろう。私とお前の二人きりなのだからな」
「なに、を……あっ、ふ……ぅ……」

 彼はたった今の瞬間まで、その事実を無視していた。いや、正確には気づかないふりをしていただけなのかもしれない。足首まで下ろされ、地についたスラックス。体内に埋め込まれた熱い大きな塊。切嗣は正真正銘の男性だ。女性のようにそれを受け入れる器など持ち合わせてはいない。当然である。そもそもそのような穴は生物学上、雄には必要とされていないからだ。こんなにも痛みを覚えてしまうのにもなるほど納得がいく。などと呑気なことを言ってはいられない。
 腰を鷲掴まれ、非情なまでに下から思いきり突き上げられる感覚。足が震えて立っていられない。肉と肉がぶつかり合い、火花を散らすたびに、唇から洩れそうになる声を必死で抑える。そもそも綺礼の頭には性交をするという考えよりも、恐怖の対象である自分自身に身体を暴かれていく瞬間、切嗣がどんな顔をして、どんな声を出して、泣いて縋りつくのかということの方に関心があった。性交渉を真の目的としない行為には、慈しみの欠片もない。結合部の皮膚はとうに裂け、それはまるで処女のように、白に混じった赤が切嗣の太腿を伝っていく。
 やはりこれは悪い夢だ。切嗣は尚もそう信じ込み、現実に戻るそのときを今か今かと待ち侘びた。だが、彼の願いは聞き入れられることはない。まさに今この空間で繰り広げられている残虐な行いこそがすべて、真実であるのだから。

「私から逃げられると思うなよ。衛宮切嗣」
「は、……あ、あ……っ……ん、ぐ……!」
「じっくり時間をかけて、貴様を陥落させてやる」

 腕を貫く二本の黒鍵をさらに奥へと捩じ込み、何が痛み、何が苦しいのかわからずに呻く切嗣を綺礼は無表情で見下す。しかしその内側は、追い求めていたものをようやく探し当て、手に入れられたことへの愉悦で満たされていた。せっかく手中に収めた真新しい玩具をみすみす手放してやるほど、言峰綺礼は成熟した人間ではない。



(111118)





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