まだ見ぬ真理 | ナノ




 黄昏色に空が染まる。冬木市、遠坂邸の一室にて、綺礼は実にめずらしい光景を目の当たりにして呆然と立ち尽くしていた。
 こんこん、控え目にノックした扉の先、主の返事はない。どうするべきか、はたと思い悩みながらも自然と手はドアノブを握りしめ、がちゃりと捻って戸を押していた。大きな椅子に深く身体を沈ませた時臣は、しかし綺礼が侵入してきたことにも何の反応も示さない。動揺も戸惑いもなかった。彼らは戦争の渦中に身を置いているのだ、もし何者かによって命を奪われたのだとしても不思議なことはない。それはごく当たり前のことだ。だが、こんなにも味気のないものなのだろうか。自分という人間は仮にも師である人の死にも心を揺るがすことすらないのかと、内心で冷静に順を追って考えつつ、綺礼はそっと時臣に近づいていく。
 距離を縮め、その表情を凝視し、そこでようやく気づいた。死んでいると思われたそれが死んだように眠っているだけなのだという事実に。よく考えてみれば妙な話だ。アサシンを屋敷の周囲に張り巡らせているにもかかわらず、邸内の彼が暗殺されるなどほとんど不可能に近い。
 なるほど、そういえば綺礼は時臣の寝顔など今はじめて目にしたかもしれない。道理で判別がつかなかったはずだ。瞳を閉じ、僅かに緊張を解いて綻んだ顔は年齢よりもずっと幼く見える。まるで少年にすら錯覚してしまうほどに危うい時臣の、よく手入れされた髪の束を一房掴み取った。どうにも目を覚ます気配はない。いくらここが安全だからといって、魔術師として名を馳せる彼にしては警戒心が薄すぎる。そんなことでは。
 いつの間にか懐から抜き去っていた黒鍵を音もなく忍ばせ、時臣の白い首筋に宛がう。きっと身に纏う衣服よりももっと鮮やかな、真紅が似合うだろうと。何となく考えた矢先、やや唸ってようやく時臣の瞳が開いた。つい数秒前まで触れていたはずの得物は咄嗟に元あった場所へ収納し、まるで何事もなかったかのように。綺礼は普段どおりの鉄面皮で、まだ眠そうに眼を擦る師へ軽く会釈した。

「申し訳ありません、時臣師。お休みとは知らずに」
「いや……構わないよ。私こそすまない……いつの間にか寝てしまったようで」
「お疲れなのでは? ベッドへ行かれた方がよろしいかと」

 矢継ぎ早に言葉を投げかけてくる弟子に、少し恥ずかしそうに、はは、苦笑する。時臣としても、こんな無防備な有様を晒してしまったことに対して少なからず羞恥心は抱いているらしい。常に優雅であることを自らの生き様としている自分にはあるまじき失態だ。それもよりによって弟子の前とは。嘆息するも、今さら言い訳も撤回も通用はしない。別にこの男が誰にそれを言い触らすということもないだろうが、綺礼に見られたというのは何となくきまりが悪い。
 つまりこれは時臣自身のプライドに関わる重要な問題なのであるが、そのようなことは当然綺礼の知ったことではない。顔を背け、唇をすぼめて何かぶつぶつと呟く時臣の意外な一面に、多少なりとも綺礼は驚いた。だからといってそれが表情に出ることはなかったので、どうやら彼には気づかれなかったようだが。
 しかし、こうしてあらためて見るとなかなか整った顔立ちをしている。とても二人の娘をもつ父親には見えない、貫禄も威厳も確かに持ち合わせているはずなのに。今こうして綺礼に見据えられている己を恥じる時臣は、魔術師でも何でもないように見えてしまう。

「……私が忠告など差し出がましいこととは思うのですが」
「綺礼?」
「師にはもう少し、危機感を持っていただきたい」

 しゅる、首元に結ばれたリボンタイを綺礼の指が軽く引くと、支えを失ったそれは時臣の膝の上へ無残にも落下した。貴族である彼が身につけるにふさわしい純白のシャツは、まだ穢れを知らない時臣の心そのものを投影しているかのようだ。
 馬鹿馬鹿しいとも思う。今まさに、綺礼の執着する人間は衛宮切嗣ただ一人であるはずなのに。なぜだかこの男を、あの英雄王の好きにさせておくのも気に入らない。仮にも神父である自分がこのようなどうしようもない煩悩に支配されている現実を嘲笑しつつ、己よりも幾分か細い時臣の手首を握り込んだ。



(111116)





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