猛獣とワルツ | ナノ




 はて、眼前に蹲るこの男を自分はどうしたかったのだっけ。言峰綺礼は暫しそういった問答に駆られ、しかしいまだに沈黙を貫いたままである。
 心配せずともこちらを睨みつける彼がおかしな行動をとる可能性はきわめて低いだろう。これが聖杯戦争のマスター同士の戦いともなれば話は別だろうが、今、彼らの周囲を輪になって取り囲んでいるのは他でもない、アサシンのサーヴァントである。三大騎士クラスとはもちろん、他のサーヴァントと比較しても力では圧倒的に劣っているアサシンであるが、物理的な攻撃を基本的に受け付けない彼にとって、人間を殺めるなど赤子の手を捻ることより造作もない。そして幸いなことに、アサシンという存在は単一で構成されているわけではなかった。現に綺礼の背後には複数のアサシンが群れを成して待機しており、彼の与える命令をいつでも遂行できるようきちんと態勢を整えてあった。
 しかし、たかが人間一人相手にここまで万全を期すことになるとは、当の綺礼も想像しなかったことである。今回の聖杯戦争においてもっとも危険で厄介な人物はこの衛宮切嗣に相違ない、そう確信していたのは確かだ。だが、だからといって師である遠坂時臣にも何も告げず、自らの判断だけでこのような暴挙に出る必要性は果たしてあったのかと聞かれれば、彼は何も答えられない。
 マスターを殺害してしまえば、魔力供給を受けているサーヴァントは自ずと現界を保てず消滅してしまう。その原理でいけば、綺礼の判断は正しかったかもしれない。が、マスターの危機を察したサーヴァントがこちらへ出向き、刃を振り下ろす可能性の方がずっと現実的だ。いくらあの騎士道を重んじるセイバーが、それとは真っ向から対立する切嗣とうまく関係を築けていなかったとしても、契約という縛りがそこにはある。また、何らかの事情により危機に瀕したマスターの存在にサーヴァントが気づけなかったとして、その手の甲にしっかりと刻まれた令呪がある限りはどんな原則だろうと簡単に無視することができるのだ。
 それほどにサーヴァントの存在は脅威であり、故に、聖杯戦争へ参戦するマスターたちには、武道や魔道の心得とは別に、それなりの智略が必要とされる。綺礼も決して頭の悪い人間ではなかった。あの偉大な魔術師である時臣の舎弟として認められるほどのことはあるのだ、当然のことかもしれない。
 しかし、衛宮切嗣のこととなるとどうやら正常な判断も及ばなくなってしまうようで、そんなにも余裕のない自分自身をどこか淡々と傍観してみたりもし、そうしてあらためて綺礼は、己の切嗣への澱みない執着心に対して愛しさすら覚えてしまうのであった。

「……僕を殺すつもりか?」
「貴様は、殺してしまうにはあまりにも惜しい男だ」

 アサシンに見張られているおかげで思うように動くこともできない今の切嗣は、武器を持たないか弱い女子供にも等しい。だが、綺礼を見据える眼差しの鋭さが鈍ることは決してなかった。こんな絶望的な状況においても悲嘆するどころか、どうにかして生き延びる手段を探し求めている。彼の今まで生きてきた経験がそうさせるのであろう。
 何であれ、綺礼にとってはおもしろくも何ともない。もともと何をするにしても無感動で、この世に生きる喜びはおろか、存在する意味すら実感することのできない自分だ。たとえ切嗣がどういった反応をしたとしても、その鋼鉄の心臓はさざ波すら立てないに決まっている。
 だからこれもほんの興味本位、言うなればただの実験である。一度腰を下ろし、切嗣と視線の高さを同じにしたところで、彼の黒く分厚いコートの中に隠された特殊な装丁の施された、一際目立つ銃を抜き取った。綺礼がその特殊な銃について理解していることなど微塵もなかったが、それを目にした瞬間、一瞬切嗣の瞳が揺らいだのは見逃すまい。
 これこそがこの男にとっての切り札であると心の奥底で確信し、そうした上で立ち上がると、綺礼はおもむろにその銃口を切嗣の口内へと乱暴に突きつけた。さすがの切嗣も動揺を隠せずたじろいだようだったが、特に抵抗をするわけでもなく、ぐ、と生唾を呑み込んだだけに終わった。
 綺礼が何を考えていようと、その銃、トンプソン・コンテンダーに一つも弾が込められていない事実は明らかである。彼が自分を殺すつもりでトリガーに指をかけたとしたところで何も起こるはずはない。確かにこの状況は少なからず切嗣のプライドに傷をつけることとなったが、下手な足掻きはかえって災厄をうむことになるだろう。口の中に冷たく無機質な鉄の温度を感じながらも、切嗣は綺礼をそのまま見やるだけだ。
 その訓練された状況判断の精度には綺礼も打ち震えるばかりである。いかなる拷問も彼には通用しない。逃げも隠れもせず、感情はただ押し殺し、かといっておとなしく屈服する気も殺される気もさらさらないといった装いだ。だから、この男のそれとは異なる表情を一度でいい、見ることができたなら。おそらくそのとき己の中の愉悦に辿り着くことができるのではないだろうか。
 感情の一切籠らない、曇り濁った綺礼の瞳が残酷に切嗣を見下す。その唇から紡がれる言葉は有無を言わさぬ絶対的な命令でしかない。今この場を支配しているのは紛れもなく十字架を携えた神父に違いなかった。

「……舐めろ」
「…………」
「何だその目は。よもや私の言葉が聞こえなかったわけではあるまい?」

 屈辱を感じるよりも先に、切嗣の思考は理解を超えた発言に一時的に機能を停止した。見上げた先の綺礼は笑うこともなく、蔑むこともなく、ただ何を考えているかわからないような表情のまま。先ほどと比べて変化があるようには思えない。一体どういった意図でそのような世迷い言を吐き出したのであろうか。少し考えれば切嗣を絶望させられるような、もっと効率のいい手段があるようなものなのに。
 だがしかし、ここでの沈黙はすなわち拒絶を表す行為である。それこそ周囲のアサシンたちを使って人間一人を嬲り殺すなど容易なことであるし、とりあえずは素直に従っておくべきだ。切嗣とてこのようなところで野垂れ死ぬつもりは毛頭ない。彼にはやらねばならぬことがあるのだ。隙を見せておいて、一瞬の不意を衝いてこの状況を打破する、魔術師殺しの名で恐れられた衛宮切嗣であるならば不可能な話でもあるまい。それだけの自信が彼にはあった。油断させる意味も込めて、彼の言うとおり、ここはひとつ従ってやろう。
 嗅ぎ慣れた匂いに眉を顰めながら、ざらついた舌でそっと撫でるよう銃口に触れる。まるで弾薬を口にしたかのような違和感。正直にいってあまり気持ちのいいものではない。当然だ。それを他人に向けることはあっても、自らに、しかもこうして身体の一部に受け入れるなど本来ならばありえない話であるのだから。
 果たしてこんなもので満足するというのなら、この神父も見せかけばかりの聖職者でしかない。ちらり、様子を窺おうと視線を向けるもやはり綺礼の態度に変化はなかった。あくまで外面上は、の話であったが。



(111112)





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