Mousetrap | ナノ




「……ん」

 突き出された、一見するとただの棒のようなその物体の名称を臨也はよく知っている。まっすぐに伸びたプレッツェルにほどよい甘さのチョコレートを絡め、それでいて持ち手の部分は指先が汚れないよう、また、プレッツェル本来のやさしい味わいを堪能できるよう創意工夫が凝らされている至高の一品。
 と呼ぶには少々大袈裟なような気もするが、日本人であるならば老若男女を問わず、誰もがその存在を認知しているはずだ。今ではコンビニやスーパーのお菓子売り場へと足を運べば簡単に手に入れることができる。値段もお手頃ということもあって、子供のおやつにもぴったりだ。近頃の製菓会社の商品戦略もなかなか侮れないものだと、数週間前、感心しながらそれを口にしていた自らを顧みる。
 今日はどうやらこの国民的知名度を集める菓子にちなんだ日であるらしい。単純にそのかたちを数字になぞらえただけの話ではあるのだが、たまにはそうしたくだらない行事に参加してみるのもいいかもしれないと、つまるところいつもの気まぐれである。
 何でも恋人やら友人同士が左右からこれを咥え、同時に食べていき、あわよくば唇がぶつかるスリルを楽しむという奇妙なゲームが存在するらしく、実はそちらの方に興味を抱いたなど、静雄を前にして当然言えるはずもなく。とりあえず甘いものが好物の彼を釣る手段として、あらかじめ不機嫌きわまりない秘書に頼んでいくつか用意させてあったのだが。
 まだ仕事中の、パソコンの液晶画面と睨み合いをしている臨也の眼前に、あろうことかその棒状の菓子を咥えた静雄が顔を出すとは誰も予想するはずがない。もちろん恋人である彼でさえも、今まさに口をぽかんと開けて、信じがたい現実を必死に頭の中で理解しようとしている最中であったのだから。

「……シ、シズちゃん? これは一体どういう」
「ああ? これがやりたかったんだろ」
「いや、ええと、そう、そうなんだけど」

 臨也のことだ、てっきり喜んで犬のように尻尾を振って食いついてくるものばかりと考えていた静雄は、半ば拍子抜けしたとでも言わんばかりに咥えていたそれを一度抜き取り、肩を落としてかぶりを振った。てんで期待外れ、というより。
 やはりこの男にはさほど度胸も覚悟も備わっていない。いざ望んでいたものを差し出されたところで、それを享受するだけの余裕を持ち合わせていないのだ。何とも情けない。わかっていたつもりではあったが、これほどまでとは。
 右手に持ち直した菓子を普通に食べることにした静雄は、それきり臨也には目もくれず豪奢な革張りのソファにどっかりと腰を下ろして背を向けてしまった。テーブルの上には同じかたちをした箱がいくつも積み重ねられており、まだ一箱目を手に取ったばかりの静雄には遠い道のりだ。だがしかし、これ以上ここに留まる必要もないだろう。とりあえずはこの箱の中身を口の中に放り込んでしまって、残りは黙って持って帰ってしまえばいい。もともとあの男は自分と違って甘味を好まない性質であるし、それにこのどうしようもない苛立ちを鎮めるにはそうするより他にない。
 ぽりぽり、軽快な音を立てながらひたすらにそれを貪っていた静雄は、ふと首筋に熱い吐息が吹きかけられたのに怪訝そうな顔をした。今さらどうして機嫌をとろうとでもいうのだろうか。馬鹿馬鹿しい。
 臨也はいつもそうだ。静雄の示す一瞬の隙をあろうことか見逃してしまう。こちらはわざわざ与えてやっているというのに、視界に入れたはずのそれをみすみす見て見ぬふりをするなど。これが恋人である事実に無性に腹が立って仕方がない。一発殴ってやれば気が済むかもしれない、背後の男に向かって振り上げた拳はしかし届かなかった。ぱし、乾いた音を立てて軽々と受け止め、そこに広がる余裕の笑みに思わず唇を噛む。やられた。

「俺のあげたものをそうやって警戒もなく口に入れちゃうあたり、君は学習能力がない。つまり動物以下ってことだ」
「……何が、したいんだよ……手前は……っ!」
「大体さ。そんな生温いゲームを俺が期待してたなんて本当に思ってるの?」

 耳元で囁く声色はどこまでも甘美で淫靡。数分前までの自分の愚かさを呪いつつ、だんだんと重くなっていく身体に静雄の額から汗が流れ落ちる。
気づいていないわけではない。この男は。どこまでも裏を掻き、徹底的に相手を屈服させる、そういったことに対して悦びを覚える最低な人間だ。それを知っていながら何度も打ちのめされる己は、なぜこんなにも。
 口内に広がるチョコレートの芳醇な香りが第三者の侵入によって掻き消されていく。思いつく限りの罵声を浴びせたところですべては無駄なことと、理解していても、それでも本能が牙を向かずにはいられない。やはりこの男とは一生手を取り合うことなどできるはずがない、掌の中の箱をくしゃりと握り潰した静雄の息が荒くなっていく。甘く色を帯びるそれが臨也の肌をぞくぞくと擽った。

「怖がらなくても大丈夫だよ。シズちゃんなら下のお口でもちゃんと上手に食べられるもの……おなかいっぱいになるまで、たんと召し上がれ」

 赤いパッケージの、山積みにされた箱を曇った視線が捉え、その意図をようやく理解した瞬間にはすべてが後の祭りであり、だが、さもうれしそうに弧を描いた外道に唾を吐く気力さえ今の静雄には残されていなかった。


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