密会 | ナノ




 矢霧波江には弟がすべてであった。それは裏を返せば彼女にとって弟以外の人間などまったく興味の対象外ということであって関わる必要性すら決して感じたりはしないということである。上司にあたる男とも若干の付き合いはあるもののあくまで仕事上最低限のやり取りしかしていない。正確には相手がべらべらと蝉のようにうるさく喋っているのを適当に聞き流して相槌を打っているだけだ。
 だから今自分がこうして進んで街に繰り出し何か目的をもって歩いているという確かな矛盾を波江は不思議に思う。「なぜかしら」そしてまさしく自分の探し求めていたバーテン服の男が前から近づいてくるのを視界に入れてさらに波江は疑問を抱く。「なぜ私はあなたに会いたかったのかしら」

「……えっと、どちらさまっすか」
「矢霧波江。今は折原臨也の秘書のような仕事をしているわ」
「は? ノミ蟲?」
「平和島静雄。話したいことがあるの。ついてきて」
「はあ……? っておい!」

 そもそも言葉のキャッチボールなど波江の辞書の中には存在していない。他人とコミュニケーションをとることが不慣れな彼女には当然といえばその通りだがそんなことを微塵も知らない人間のほとんどは動揺するのがごく普通の反応だ。突然現れた謎の女性にやはり狼狽える静雄だったが彼は少しばかり通常とは異なる感性の持ち主だったので颯爽と踵を返す彼女の後ろを素直に追う。
 何か怪しい勧誘の類いか、それとも暴力団関係の危ない話だったりして。もしそうだったとしても多分何とでもなると思うけど一応暴力だけはふるわないでおくか。我慢できるうちは。あートムさんがいなくてよかった。また迷惑かけちまうとこだった。静雄がそんなふうに思考を巡らせている間に一軒の洒落た喫茶店の前でぴたりと波江が立ち止まった。

「ここでいいわね」
「あの……金ないけど」
「別に気にしないで。誘ったのは私なんだから」

 静雄は体験したことがなかったのだがこれこそ俗にいうデートというものなのだろう。ここに至るまでの経緯はだいぶ特殊だったが。しかしいくら誘ったのが向こうだからといって女性に奢らせるというのはどうなんだろうか。確かに彼女は少なくとも自分よりはいい生活をしていそうな雰囲気ではあるが。奥の方のテーブル席に案内されてメニューに目を通しつつ静雄は悶々とする。

「私はホットコーヒーを。あなたは?」
「うーん……じゃアイスココアで」
「驚いた。見かけによらず甘党だったのね」

 ほんの少しだけ目を丸くして波江は驚きを示したつもりだったがそれはまったくといっていいほど表情に出なかった。店員が下がるといよいよ沈黙が支配する。ほどよい音量のBGMと他の客の談笑がちらほらと耳に届くがふたりの間でやはり会話はない。静雄は妙にそわそわしながら辺りをきょろきょろと見回していたがやがて波江がずっと自分の顔を凝視していたことに気づきぎょっとした。

「……そろそろ聞かせてほしいんだけど。俺に、何の用?」
「そうね。特に用事があったわけじゃないんだけれど」
「いや、意味わかんねえし」
「敢えて言うならあなたと話してみたかった。それだけよ」
「あんた、ノミ蟲の秘書って」
「不本意だけどそうなるわ。でも今回のこれはあいつとは無関係だから。安心して」
「ますますわかんねえ……」

 美しくそれでいて淡々と言葉を紡ぐ波江は静雄が今までに会ったどんな女性とも違う。だからこそ彼はどう応対すればいいのかわからない。こういうときトムであったら柔軟な対処をするのだろうが女性に免疫のない静雄には到底無理な話である。まだ臨也に頼まれて弱みを握りにきたとでも言われた方が楽だった。
 運ばれてきたコーヒーに砂糖もミルクも入れることなく優雅な仕草でカップを口に持っていく波江の姿はまるで芸術品のように完璧だ。対する静雄がグラスに刺さったストローをくわえて必死に喉を上下させている様子はさながら小動物のようである。
 波江は正面の青年をはたと見つめて考える。本当に私はなぜ静雄に会おうと思ったのかしら。答えを突き詰めていくほど自分の行動は不可解極まりない。かつて弟のこと以外でこんなにも悩んだことがあっただろうか。一気に飲み干してしまい空になったカップをテーブルに置いて波江は息を吐き出す。

「あなた、恋人とかはいないの」
「……いない」
「そう。なかなかいい男だと思うのにね」
「そりゃどうも」
「だったら私、とかはどうかしら」

 言ってから何を馬鹿なことを、と波江は自嘲した。いよいよ私もあの頭のおかしい情報屋に影響されたのかしらね。静雄はというと言われたことを理解できていないのかきょとんとしたまま彼女を見つめている。まさか本気にしたっていうの? あまりに単純すぎる。波江は静雄を見つめ返しグラスに添えられた一回り大きな手をゆっくりと握った。

「冗談よ」
「あ、ああ……」
「でも、もしそうなったら何だか楽しそうね」
「俺がいうのもなんだけど……あんた変わってるな」
「ありがとう」

 それからデザートを追加注文し他愛のない話をいくつかしてすっかり日も暮れてきたあたりで二人は店を出た。そのあとは連絡先を交換するわけでもなく実に呆気ない別れ方をしたのだが波江はショーウインドウに映った久しぶりに人間らしい表情をしている自分に驚きを隠せない様子だった。平和島静雄。また会ってみてもいいかもしれない。今度は本気で告白してみようかしらね。ああ今から彼がどんな反応をしてくれるのか楽しみだわ。ご機嫌な彼女は軽い足取りでそのまま帰路についた。



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