白の贖罪 | ナノ




#8話捏造
#晶馬が死んでる




 この病院まで一体自分がどうやって辿り着いたのか、冠葉には記憶がなかった。確か妹の陽毬が荻野目苹果からかかってきたという電話をとって、それで、晶馬が。そうだ、あいつはどこへ行ったんだ。はっと顔を上げて真っ白な病室を見回す。ここはどこだろう。なぜまた自分はこの場所へ足を運んだのだろう。そういえば以前陽毬が病をこじらせて入院していたとき、主治医には何度も世話になったような気もするけれど。結局彼は陽毬の病気を治すことはできなかったのだから、冠葉にとってはやはりどうでもいいことであった。
 あの日見た風景が視界いっぱいに広がっている。四角くて白い、無機質な部屋。窓から差し込む夕陽の色に染まって今は美しいオレンジ色をしている。さほど大きくもない、シングルベッド。病院のそれはあたたかい家庭にあるようなものとはかたちこそそっくりだけれどどこか違うように思える。そこで眠るのは、何も生きている人間に限ったことではない。もう二度と動くことはない、心臓の機能を止めてしまったかつて人間だったもの。ここではいくつもの命が生まれ、同時に絶えていく。それが幼いながらにとても不思議で、父の背中を追ってよくこの場所を訪れていた冠葉は、そんな昔のことを思い出しながらゆっくりと視線を巡らせた。
 かつてそこには、誰よりも愛する妹の変わり果てた姿があったことを覚えている。今でも鮮明に。脳裏にしっかりと焼きついている。冠葉は陽毬の笑顔が好きだった。今まで交際してきたどんなに愛らしい少女たちのそれよりも、ずっと。だからそれが失われた瞬間、ひどい空虚感に襲われ、突きつけられた現実を受け止めることで精一杯で、他には何も考えることができなくて。絶望する晶馬の姿を横目に、気味が悪いほど落ち着いた態度をとっていたような気がする。でもきっと、そうでもしなければ。自分の中の感情をすべて吐き出してしまったとしたら、それきり他には何も残らないのではないかという漠然とした恐怖が彼を支配していたから。自分のかわりに悲しみ、苦しみ、嘆く弟がいてくれるならばそれでいいのではないかと思った。陽毬は確かに一度死んだ。彼らの目の前で静かに息を引き取った。けれど今、昔と変わらずに元気な姿を見せているのも紛れもない事実で、それはとても奇妙な話ではあるが、運命であるならばそれもまた、神の導く未来なのだと。
 黄昏時の病室にて、冠葉はある一点を見つめていた。空っぽのはずのベッドの上には横たわるものがあって、それはとてもきれいな顔をしていて。息をしていないなどと到底信じられるはずもなくて、それでも触れた肌は氷のように冷たく硬直していて。とす、ベッドの脇のパイプ椅子に力なく腰を下ろし、だが冠葉の口からは何の言葉も出てこなかった。晶馬は、死んだ。荻野目苹果をかばってトラックに撥ねられて。遺体は驚くほど美しい状態で、損傷もあまりなく、だからこそ眠っているようにしか見えなくて冠葉は何度も目を擦る。兄貴遅いよ、どこで何してたの、あれ陽毬がいないじゃない、ちゃんと見てないとだめだろ、あいつはちょっと目を離した隙にすぐどっか行っちゃうんだから。今にもそう語りかけてきそうな唇は動かずに。

「なあ、晶馬」

 本当は起きてるんだろ。狸寝入りなんてして俺にばれないとでも思ってんのかよ。まったくお前は昔から変なとこで間抜けだよな。他のやつの目は誤魔化せても俺はだめだ。誰だと思ってる、お前の兄貴だぞ。ほらさっさと起きろ、もう少しで夕飯の時間だ、陽毬も家でお前の作る飯待ってんだ、そんなとこで居眠りしてる場合じゃないんだ、もちろん俺だって。晶馬の夕飯食べるためにわざわざデート断って帰ってきてんだからな。責任とってうまいもん作れ。俺を満足させるようなもんじゃなきゃ許さないからな。それともお前が俺のデートの埋め合わせしてくれるってんならまた話は別だけど。はは、冗談だよそんなに怒るなって。まあ俺は結構本気だったんだけどな。……なんて。
 晶馬は何も言わない。何も言葉を返さない。当然のことだった。高倉晶馬という人間はもうこの瞬間には世界から姿を消していたのだから。今回は自分のかわりに悲しんだり、泣いたり、言いようのない怒りを吐き出す人間がいない。けれどだからといって、冠葉の心はやはり空っぽだった。あのときと同じだ。陽毬が死んだときと。非情な現実を受け入れるのに時間を要して、遅れて理解したときには一切の感情が欠落していて。それはきっと寂しくてつらくてたまらないことなのに、表現する術も自分には見当たらない。やや色の白い掌を握った。ベッドの白と同化して霞んで見える。晶馬の存在が消滅していく。これも運命だったというのだろうか、冠葉にはわからない。すべての元凶である荻野目苹果を恨み、罵り、挙句の果てに殺せば何かが変わるのか。それは違う気もする。なんにせよ、そんなことをして陽毬が喜ぶはずもないし。
 晶馬。名前を呼んだ。何度も何度も。キスをすると嫌がる、その唇をゆっくり指でなぞった。何がいけなかったのだろう。自分も晶馬も、ただ陽毬のためだけにあらゆる危険を冒してきた。愛する妹のために奮起することがそんなにも許されない罰だというのか、それとも。もしかしてこれは与えられるべき当然の罰だったのか。犯した過ちを償うには、こんなものではまだ足りないと、運命が囁いたような気がして。

「……ようやくおでましか」

 いつの間にか弟の頭にのせられていた見慣れたペンギン帽を不敵な眼差しで見つめ、それから開かれた瞳に視線を移す。背負えるだけの罪ならばいくらでも背負ってやろう。そうすることでまたあの幸せを取り戻すことができるなら、いっそのことすべて。まもなく全身を覆うであろう未知なる感覚に身を任せ、遠くの方で冠葉は声を聞いた。きっと何者にもなれない自分にできることなど、高が知れているのだから。



(110903)





「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -