昆虫観察 | ナノ




 ひんやりとしたフローリングの温度が火照った夏の肌を癒していく。自分の家であるならば空調など好き勝手効かせておけるのだが、あいにくとここは彼の家だ。ただいま生活費を切り詰めるのに必死でどうやら扇風機すら回すことも忍ばれるらしい。ぼろぼろで小さな一人掛けのソファにどっかりと、右手にうちわ、左手にアイスを持った状態で半ば苛立ちを見せながら腰かけるこの家の主を眺め、俺は息を吐き出す。
 なぜわざわざこんなにも暑い日によりにもよってこんなところで転がっているのかと聞かれれば理由は特にないかもしれない。たまにはこうして人間の気持ちを味わってみるのも新鮮だろうと、そう、いつもの気まぐれに過ぎない。それにしたってここはひどく蒸し暑い。開け放った窓から入ってくる風もカーテンを僅かに揺らすだけであってないようなものに等しい。灼熱地獄と化したコンクリートの上に立ち尽くしているよりはいくらか快適だろうが、いやそもそもそんなものと比べる方が間違っているような気もする。ぱたぱたとシズちゃんの仰ぐうちわから生み出された微風が時折こちらまでそよいでくるが、状況はまったく変わらない。だから先ほどからずっといくらか冷えた床に完全に身体をくっつけたままなのだ。我ながら馬鹿らしいと思わなくもないけれど仕方がない。
 少しだけ顔を上げてアイスに舌を這わせるシズちゃんを見やる。額に汗を滲ませ、半ば息を荒げながらそれをぺろぺろと舐める無意識な媚態にごくりと喉が鳴った。そういえば学生の頃もよく、夏になるとこんなふうにアイスを食べていたっけ。歯で噛んだらいいのに、わざとらしく舐め回しているものだから誤解されても無理もない話である。ああやって俺のも舐めてくれたら、とか、不埒な妄想をして脳髄が熱くなって呼吸困難。そんないかがわしい視線に感づいたのか、シズちゃんはあからさまに殺意の籠った視線をこちらへ向け長い脚で俺の肢体を蹴り飛ばしてきた。いってえ。肋骨いったかも。まったくこいつは加減ってものを知らないから少しは後先考えて行動しろよ、と。言っても無駄か。

「気持ち悪い、こっち見んなノミ蟲が」
「シズちゃんがそんなエロい顔してるのがいけない」
「ああ? ふざけんな死ね! 俺に蹴り殺されて死ね!」
「ちょっと、それ冗談だとしても笑えない」

 実際に彼に蹴り上げられた部分は骨が軋んで悲鳴を上げているかのようで生きている心地もしない。あまりの痛みで発熱でもしたか、この部屋の温度が高すぎるのか、そこまで思考するには至らなかったがとにかく熱くてたまらなかった。いいよなあ、シズちゃんだけそんな冷たくておいしそうなもの食べて。どうせちょうだいなんて言ったところでまた蹴られるのがオチなんだろうけど。本当、扱いに困る。大体俺の顔見てるだけでムカつくとか言われるんだからそんなのどうしようもないわけで、結局は殴られるか蹴られるかは覚悟しておかないといけないのだ。彼には暴力が付き纏っているのだから、特に俺に対するそれは絶対的。でも別に今さらそんなことはどうだっていいんだ。
 ああ、熱い。熱すぎて何も考えられない。まだそこにあるシズちゃんの裸足を僅かに残った気力だけで掴んで、口を開けて、指先をぱくり。一瞬何が起こったのかわからずにぎょっとする彼をおいてけぼりにしたまま舐めては吸い上げて。びくん、震えた手がアイスをフローリングの上に落とし、宙を掴んだ。それは無意識のうちの行動だったのだと思う。嫌がらせとか、欲情したからとか、そういったことではなくて。後になって考えればそんな意味も含まれていたのかもしれないが。
 がつん、もう片方の脚で腹を踏まれ、ぐえ、蛙の潰れたような妙な声を出して咥えていたものを吐き出した。真っ赤に染まったシズちゃんの顔も熱そうだ、考えて続く第二撃に備える。なんとか直撃は免れたけれど下手したら病院送りレベルだろう、相変わらず容赦がない。それにしても俺の唾液に濡れててらてらと光る爪先が鮮明に映って、何だか。

「最悪だ、最悪最悪っ……」
「そうかな、俺は最高だよ」
「暑さで頭にウジムシでも湧いたんじゃねえのか!」
「……それは最悪だ」

 だけど彼の言うとおり頭の中に蛆が湧いてゆっくりと俺の全身を蝕んでいくのだとしたら、完全に食い尽くされる前に目の前の獲物を捕食するのだろうと思うわけで、つまり俺は今まさに、彼に欲情しているのだ。



(110830)





人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -