お察しのとおりです | ナノ




#やや7話ネタバレあり



 その日、晶馬の帰宅はいつもより遅かった。俺が家に着いたときには茶の間で陽毬がひとり寂しく、おそらくあいつが作り置きでもしていったのであろうカレーをもくもくと食べている姿しか見当たらなかったのだ。弟の行方を妹に尋ねてみると知らないと言う。あの誰よりも保護者面した晶馬が誰にも行き先を告げず姿をくらますだなんて一体何事だろう。不安そうな表情を浮かべる陽毬を先に寝かしつけ、俺はひとり、静まり返った家の真ん中で頬杖を突いていた。
 思えばこんなことは初めてだったかもしれない。いつも玄関の扉を開けば俺の帰宅が遅いことに対してぶつぶつ文句を言ってくる晶馬がなんだかんだで出迎えていてくれたおかげで、だからなのか、少しだけこの空気が寂しく感じる。携帯には何度か連絡を入れてみたが音沙汰はない。もしこのまま帰ってこなかったら。あいつが突然俺の目の前からいなくなってしまったら。それはもしかしたらとても恐ろしいことかもしれない。こんなにも不安で胸が押し潰されそうな感覚は久しぶりだ。
 陽毬の命がもう長くないと医者に宣告されたあの瞬間、俺の中で何かが確かに崩壊した。いろいろとあって今は大切な妹とまた笑って暮らすことができているけれど。それだって、いつまた壊れてしまうかなんてわかったものじゃない。陽毬のために俺たちはピングドラムを手に入れなければならない。ああ、わかっているさ。あと少しのところなんだ。あの変態ストーカー女から妙な日記を手に入れることさえできれば、俺たち兄妹の平穏は守られる。もう誰にもおびやかされることなどなくなるのだ。だから晶馬、早く帰ってこいよ。お前だって俺には必要不可欠な存在なんだ。
 祈るような気持ちで手を組み、きつく目を瞑る。その瞬間、玄関の方で物音がしたのに俺ははっとして顔を上げた。疲れ果てた表情をした晶馬が後ろからペンギンを引き連れてのろのろと入ってきたのに、真っ先に問いただす。今までどこで何をしていたのかと。晶馬は俺の顔をちらりと見やってから深く息を吐き出し、少し迷ったあとで何でもない、ただそれだけ呟いた。それが「何でもない」なんて言うような顔かよ。すれ違いざまに背中に視線をやると、何やら湿り気を帯びて濡れているように見えた。雨に当たったのかとも思ったが、今日の天気は一日中晴れだった。……怪しい。このひどく疲労が滲み出た顔つきとも相まって、非常に怪しい。
 大体散々心配かけたくせにその態度はないだろう。電話もメールもよこさないし、そのことについての弁解もないのか。何だか腹が立った。風呂に入ろうとしているのか、まっすぐ洗面所へ向かっていく晶馬の腕を背後から掴んで振り向かせる。なに、少しだけ目を見開いて驚きを見せるも面倒くさそうに眉を顰めてそれを振り払おうとしてきた弟に、これはきちんと言い聞かせる必要があると、やや乱暴に壁へ叩きつけた。一瞬走った痛みに息を吐き出し、それから反論しようとした唇も塞ぐ。抵抗は思ったよりされなかった。そこまでの気力がないといった感じだった。それともあまり騒いで眠っている妹を起こしたくないのだろうか、俺にはわからなかったけれど。

「んんっ……! っ、あに、きっ……いきなり何……」
「何でもないなんて嘘だろ。何があったか言え」
「…………」
「それとも俺には言えないようなやましいことでもしてたっていうのか」

 強い口調で噛みつくように捲くし立てると、観念したのか、はあ、半ば諦めたように溜息をついて晶馬は項垂れた。別に弟を疑っているわけではないし、脅すような真似をしたくもなかったのだけれど。こいつがどこで誰と何をしていたかくらい兄である俺が知っておく権利はあるはずだ。いや、そんな権力を振りかざすような行為では俺の醜い独占欲などオブラートに包めるはずもないか。晶馬もそのことは十分に理解しているのだろう、今の俺にはどんな言い訳も通用しないのだと腹を括ったらしい。
 それからぼそぼそと、口をすぼめて今までの出来事を話し出した。荻野目苹果に誘われてパーティーへ行ったこと、そこで多蕗と時籠ゆりの婚約発表があったこと、諦めたと思われた荻野目苹果の奇妙な実験に付き合わされてしまったこと。すべてを聞き終えたあとで、なるほど、それでここまで疲れきった表情をしていたのか、合点がいった。しかしあの変態女、そんなよくわからない黒魔術のようなものにすら縋りつくとはなんという執念。そこまでいくと変態を通り越してむしろ尊敬に値するレベルだな。思わず感嘆の息をこぼす俺に、兄貴は他人事だからそんなことが言えるんだ、泣きそうな顔をして晶馬は嘆いた。
 確かに俺はあの女と深く関わらないようにあえて距離をとっているし、そのせいで弟が犠牲になってしまったことも仕方ないなどと思っている最低な人間だ。けれどそれだって全部陽毬のためであるし、俺には俺で他にやらなければならないことがある。この家でまだこれからも三人が暮らしていけるように。まあ、同情くらいはしてやろう。話を聞いただけでもおぞましい実験の被害者にまつりあげられた可哀想な弟を慰めることくらいは、俺にもできるかもしれない。

「なあ、カエルの産卵ってどんなだった?」
「それを僕に聞く? ほんとに兄貴ってデリカシーの欠片もないというか、なんというか……ていうかその瞬間なんて見てないし、わかんないよ」
「ふーん。……じゃあ、お前が実際にやってみればいいんだよ、な」
「実際に、ね…………はぁ!?」

 まさか冗談だろうと言いたそうに口をぱくぱくとさせて、だが何も言えずにわなわなと唇を震わせるだけの晶馬に、俺がこんなときに冗談で物を言うような性格だと思うか、わざわざご丁寧に聞いてやったら、案の定黙り込んでしまって。長い付き合いなんだ、そのくらいはさすがにわかってもらってるってことか。それにしたって本気でそんなふざけたことを言い出す兄貴が一生理解できそうにない、頭を抱えて唸る弟に、理解なんてされなくたっていい、俺のことは俺だけがわかってればいいんだから、もっともらしいことを言って笑う。大体俺だって、結局は拒絶できないお前のことが理解できないんだ。



(110829)





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