サイレン | ナノ




#やや5話ネタバレあり



 陽毬の帽子を無事に回収した、その翌日。ぼろぼろに傷ついた兄の姿を事情も詳しく知らない妹に見せるのも躊躇われていたところ、事件の発端である苹果が負い目を感じたのか、陽毬を連れて動物園にでも遊びに行ってくると言って、女子ふたりが弁当を片手に高倉家を後にしたのはほんの数十分前の出来事だ。
 残されたのは心身共に疲れ果てた双子の兄弟である。特に怪我がひどいのは冠葉の方で、今すぐ病院に行くべきだと晶馬は何度も説得したのだが、当の本人が大丈夫だの一点張りであるせいで、結果的に自宅療養という手段を取ることになった。高速で走るトラックに引きずり回されたおかげで冠葉の足は目を背けたくなるほどにずたずたで、包帯を取り替える晶馬の手の動きも思わず鈍る。陽毬には直接見せてはいないから、階段から落ちた、とか適当に言い訳をしてそれで済ますことができたけれど。それにしたってやはりきちんと医者に見せ、適切な治療を施してもらうべきであると、晶馬はすまし顔の冠葉をちらりと見やりながら内心思う。だが、この兄がどれだけ意固地な人間かということをつくづく思い知らされていたため、再度その言葉を投げかけるのは諦めた。
 冠葉がこんな怪我をしたのも元はといえば苹果が帽子を勢いよく外へ投げ飛ばしたのが原因であるのだが、如何せん、状況を理解していなかった彼女を責め立てることなどできない。誰だってあんなものを見たらわけがわからなくなるし、それに、仮にも陽毬の口からあのような下品な暴言を吐かれたら、理性的ではいられなくなってしまうだろうから。自分たちはもう何度か豹変した陽毬の姿を目の当たりにしていて、それが陽毬の姿をした別の生き物だということを理解しているからあそこまで取り乱すことはないけれど。あれは、普通の反応だ。冠葉もそれくらいはきちんとわかっているようで、特に苹果を傷つけるような発言はしていなかったように思う。もともと女の扱いに長けている彼だ、言葉の選び方には慣れているのだろう。こういうとき晶馬は何となくそんな兄が羨ましく思えてしまうのだが。

「痛い、よね?」
「まあ、それなりにな。まだ完全に血が止まったわけじゃねえし」
「とりあえず、包帯はこまめに取り替えるようにするよ。さっき荻野目さんに新しいものを買ってきてもらうように頼んでおいたし」
「ん。晶馬がいてくれて助かった。お前、やっぱりいい嫁になるよ」
「僕は! 男だ!」

 どうでもいいやり取りを数回繰り返したあと、一息ついて、気になっていたことを尋ねてみようと考える。昨夜の帰りが遅かった理由だ。いつものようにふらふらと女の家を渡り歩いていたのならば特に心配はしない。それが日常であるから。けれど、昨日の冠葉は一向にメールをよこさなかった。普段なら夕飯の時間帯までには何時頃に帰る、と一言送ってくるはずなのだ。それが高倉家におけるルールである。他でもない陽毬の、ご飯はなるべくみんなで一緒に食べたい、というお願いを冠葉は喜んで聞き入れたわけだし、よほどのことがない限りは夕飯までに帰るようにしていたように思えたが。
 杞憂ならばそれでいいのだ。ただ、最近の冠葉の行動は以前にも増して不可解な部分が多い。弟として、多少は心配をすることもある。この兄を心配してやるという親切心自体が無駄なような気もするけれど。それでも、大切な家族のひとりだから。晶馬は晶馬なりに、家族を守りたいと思っていた。

「また女の子のところ行ってたの?」
「なんだ、気になるのか」
「い、いやっ、べ、別に、兄貴が、いつ、どこで、どの女の子と、な、何をしてようが、僕にはどうでもいいことだけどっ! ひ、陽毬、そう、陽毬が心配すると思って」
「……そう、だな」

 言い終えてから、自分はなぜこんなにも挙動不審になっているのかと、赤くなる顔を押さえて晶馬は押し黙る。素直に冠葉が心配だと言えばよかった。妹を引き合いに出した理由は何だろう。考えたけれど咄嗟に口をついて出てしまったのだ、わからなかった。もしかして、あらぬ誤解を受けてしまっただろうか。冠葉の口元が何となく歪むのを見てしまって途端に後悔する。今、自分の放った言葉がどう受け止められたのか、知りたくもない。
 お腹すいたでしょ、適当にお昼作ってくるよ、立ち上がって回れ右をしたところでぐいぐいと服の裾を引っ張られ、思わず後ろに倒れそうになる。最初は踏ん張って堪えようとしていた晶馬だったが、意外にも布を引く冠葉の力は強く、ふと気を緩めた瞬間に足が滑り、ちょうど彼の腕に収まるようなかたちで尻餅をついてしまった。どすん、衝撃が全身に伝わり、遅れてじんわりと痛みが広がる。別にたいしたものではなかったが、というより、なぜ引っ張られた。抗議の声を上げようとして背後から抱きすくめられ、首筋にふっと息を吹きかけられたことによってそれも侭ならなくなってしまったけれど。

「な、なっ、なに」
「何となくさ。こうやって自由に動けないと人恋しくなるんだよ」
「……本当に?」
「……半分は本当、もう半分は嘘」

 そうやって耳元で囁くのはやめてほしい。何だか、自分も兄の数あるひとりの女としての扱いを受けているようで。どうしてほしいのか、よくわからない。捕らえていてほしいわけではないと思う。ただ、そう。冠葉はこの家に必要な人間であるのだから、蝶のようにひらひらと気ままにどこかへ飛んでいってしまっては困るのだ。それ以上でも以下でもない、と、信じたい。いや、本当は違うのかもしれないけれど。
 どくんどくん、心臓の鼓動がうるさい。暑くもないのに額から汗が滲み出て流れていったような気がした。冠葉のなめらかな指が触れる。暑い。熱い。

「晶馬がほしい」

 これで満足したか? 得意気に笑う兄の声色に晶馬は身を竦め、息を吐き出す。なんだ、全部わかってるくせに。意地が悪いというか性が悪いというか、とにかくやっぱり、冠葉と自分とに血の繋がりがあるなんてこれっぽっちも思えなくて。あ、やかんがピーピーと喧しく鳴る音もノイズに掻き消されていく。陽毬たちは夕方くらいまで帰ってこないのだろうな、考えて、自分もまた兄のように浅ましい人間なのだと遠くの方で知覚した。



(110806)





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