orange girl*
* * * * * * * そう、それは一瞬の魔物だったのだ。 どうしてだろう、最近何をしていても頭の中は空っぽで何も考えられなくて、だから当然のように授業の内容は理解できない(あはは)いや、笑い事じゃないけれどこのまま行けば、間違いなく私は進級が出来ないという恐ろしく深い泥沼にまっ逆さまに落下していってしまう。ああ、それだけは何とか避けたい。と、思いつつもやっぱりどこか身が入らなくて、睡眠をばっちりとる私に授業中の睡魔など恐れるに足りないものだったはずが、最近はもっぱら眠くなる。それでも重たい瞼をこすりあげて前を向いている。最近は全くといっていいほど夜に眠たくならない。それはとても不健康なことだ。いつの間にか夜型人間となってしまっていた。 日中は。頭の中はどこかに行って、気がつけば可笑しいほどボーっとしている。だけど、その理由は自分でも分からない。だからと言って誰かに相談するのも気が引けて、もし相談したとしてもきっと笑われて変なこと思われて、しっかりしろと言われてしまうのがオチなのだ。そして、また私の脳内はどこかへと消えて行って何をすればいいのだとか何をしていたのかと全て忘れてしまっているのだ。数分しかたっていないと思っていたら、もう1時間以上も経ってしまっていたという事なんてしょっちゅうだ。ただ、目の前に広がっている教科書を見れば授業の初めに開いたページから一向に進んでいなくて、ノートには何も書かれていない。先生は跡形もなく教室からいなくなっていて、生徒は既に半分以上が出て行っている状態だ。 溜息をつく日々。自分が悪いのだけれど、自分ではどうしようも出来ない。何故なら、知らないうちに記憶が飛んでしまっているのだから。しかも、時々心臓が痛くなってしまう。これはあれか。何かの病なのだろうか。私はもうすぐ死んでしまうかもしれない。ああ、悲しい悲しい・・・(・・・) もしも、今が温かくて心地よい春ならば、(そういえば今ここは季節は何だったっけ)ボーっとしていたとしても注意されたとしても、胸を張って春ボケだと笑って言い訳できるのに(いや、まあ春ボケだと言い訳しても何からも逃れられないかと思うけれど、ふと思ってしまった)と、しょうもない事を考えている時点で私の頭の中は春真っ盛りだ。ああ、寂しい。不意に、幼い頃のことを思い出してしまう。小学生の時に飼っていた愛犬ぽち。転校と同時に、あの子を泣く泣く手放した。いつも私がぽちを散歩に連れて行っていたのだ。離れて五年以上経った今でも思うのだ。あの子は、私と離れてしまって寂しがっていないだろうか?とか(この前、里親になってくれた近所のご家族からの手紙が届いて、中に入っていたポチの写真は思いのほか元気そうだったことは忘れておく)忘れておかないと余計に悲しくなってしまうのだ。(きっと、ぽちは心の中では私がいなくて寂しがっているんだ、と自分を励ます。ああ、寂しがっているのは私の方か。) そんな事をぼんやりと考えながら、寂しさで涙が出そうになって、体から力が抜けていって目を瞑って耳を傾ければ少し小さな声だけど、となりから聞こえてくるのは聞きなれた声。そう、私の唯一無二の友の声だ。思えば、今はお昼時で私と彼女は中庭に来ていて、ゆっくりと散歩でもしようとか言う話になって、そのうち私の心はどこかへ行って、最初は大丈夫だったはず。だけど気がつけば体だけ置いてけぼりになっている状態だったのだ。でも、隣に座っている彼女はそんな事に気づきもしないで1人もくもくと私に(それとも独り言なのか)話し続ける。 最近、付き合い始めたキザな男とのラブラブな惚気話。別に彼女が誰を好きなろうが反対はしないけれど、私としては、あんなキザでナルシストな男は初めて会う。正直、賛成できなかった。お前は保護者か!と思われそうだけど私にとって彼女は大切な親友なのだからそう思ってしまっても仕方がなくて今となっては聞きなれた聞き飽きた彼女の惚気話。ああ、もどうでもいい。ごめんね。これが今の私の本音。 普段は強気で頼りがいのある姉御気質の彼女が、顔を真っ赤にして話す姿にどれだけ彼を好きなのかが伝わってきて、どうしようもない寂しさに見舞われる。最近になって、自分の心の狭さに心底嫌気がさしてしまった。分かってしまった。もしかすると、私はただ親友を取られて悔しかっただけなのかもしれない。だから、キザでナルシストなんていう嫌な見方しか出来なかったのかと。これからは、ちゃんと彼を見てみようと思う。もしかすると、ナルシストでもキザでもないかもしれないのだから。もしも、ナルシストだとしても自分を過剰に大切にしているだけなのだから危害がなければいいじゃないか。キザだとしても彼女に優しければ良い。そうさ、大人になろう。 心地よい風に意味もなく長く伸びた髪の毛が揺れて頬に触れて一瞬、目を閉じてしまう。その髪の毛が少し気になるけれど、それを払いのける力はない。既に私は眠っているかのように、動かない。指先は先ほどまで無意識に掴んでいた緑色の草を掴んだままだった。きっと、その指先には草の匂いがしっかりと染み付いてしまっているに違いない。そして、地面に座り込んだ先、スカートから伝わってくるような湿った感覚。そういえば、先ほど通り雨があったと誰かが言っていたのを聞いた気がする。もしかしたら勘違いかもしれないけれど何故だか辺り一面、緑がしっとり濡れていたからきっと間違いではない。世界は、所々光っていた。まだ太陽は真上にいる。 今にも後ろに倒れてしまいそうになる体を僅かに残っている気力が、何とか踏みとどめていた。この緑がキラキラ光るのは、太陽がキラキラ光っているからなのかもしれない。 夏のように眩しく、キラキラ光って 頭の中に薄っすらと、だけど鮮明に残っているのは、何だった? ああ、キラキラと その光は焼きついて離れない。 「ちょ、あぶない・・・!」 ぼんやりとしていた私の頭の中に突然誰かの声がひと際大きく入り込んできた。止まっていた時は、一瞬で動きだした。いや私を呼んだ声の主の正体は顔を見なくとも分かっていて(何故ならその声は、唯一無二の友の声)だから咄嗟に私はその声のした方向へボーっと考えなしに回転させて振り向いた。 だけど、振り向いた先、私を待ち受けていたものは想像を超えるものであった。 というか、想像などしてもいなくて。想像することなどこの頭では無理で。何の予兆もなく私の目の前にやってきたものはオレンジ色のゼリーのようなどろどろとした物体だった。 きらりと容赦なく光を放ちながらやってくるそれは、いつだったか見たことのあるような気がして、太陽の光に反射して綺麗で思わず避けるのを忘れて見とれてしまう。それでも何とか私は避けなければいけないという信号を体中に送らせた。勿論、運動神経も頭の悪さと同じで全くもって良くない私のことだ。避けることなど出来ない。 べちゃり、と大きな音を立てて、顔面に的中する。おでこのあたりを集中的に狙われて、それとぶつかった。ゼリー状のそれは激しく飛び散る。 オレンジ色の物体はやわらかいはずなのに、おでこにかなりの衝撃を与えていった。(この時ほど、自分の惨めさを痛感したことはない)だけど、そんな惨めさを知ったところで、何故こんなことが自分の身に降りかかったのかも分からない。100%これは運動神経のない私が回避できなかったために起きた事態であっても、私が悪いわけではない。断じて違う。私は理不尽な事件の被害者だ。 このオレンジ色の物体が私の元へ飛んできたことが悪いのだ。それでも、この突然の出来事の原因を考える余裕さえもくれなくて、瞬間におでこから頬を伝って流れてきたものが口の中に広がって、今まで生きてきた中で味わったことのない強烈な酸っぱさを感じて舌が酷く熱くなった。春ボケのような私の頭の中はとうとう停止し始める。代わりに残像の様に繰り返し目に映るのは、キラキラ光り続ける真上の太陽と、視界でチラチラと光り続けるオレンジ色の物体。 夏のように明るい色。眩しいもの。 ああ、今は夏なのだろうか? 「大丈夫!?」 少し離れたところから聞こえてきた声は驚き交じりで、私を心配するような様子の声。私はやっとこのとき、唯一無二の友の顔を見ることが出来た。彼女は立ち上がって被害者である私よりも酷く驚いた顔をしていた。そして、居たはずの位置から彼女は遠ざかっていた。彼女のおしりに踏まれた緑達は未だに、くしゃりとぺちゃんこになっている。 思えば、何故に彼女はこのオレンジ色の物体を浴びなくてすんだのだろうか。理由など、バカな私でも分かった。彼女は咄嗟にこっちに向かってきたオレンジ色の物体を見て、その運動神経の良さと頭の回転の良さで瞬時に回避したのだ。立ち上がり飛び散りはじけるオレンジのゼリー状の物体からひとり避難し免れた。結果、その先にいた私に災いは全て降りかかった。彼女は逃げたのだから私だけが被害にあうのだ。我侭を言ってしまえば、私も一緒に連れて避けてくれなかったのだろうかということ。それとも、そんなことさえも彼女が思う余裕がないくらいのスピードで、そのオレンジ色のキラキラはやって来ていたのか。確かにおでこはズキズキと痛い。口の中は変になっている。でも、それ以上に何故か心が痛かった。(このまま死んでしまうかもしれない!) 頭に触れると、ぬるりとした感触 私の髪の毛はきっとオレンジ色に染まっている。 キラキラ光る、オレンジ色 太陽はまだ真上にいた。 「一体、誰がこんなこと・・・!」 怒りを含んだ彼女の声を遠く聞きながら、一瞬で覚醒したはずの頭はまたどこかへ行こうとしている。こんなハプニングが起こってさえも、私の頭の中は春真っ盛りのようで救いようがないらしい。本気でヤバいかもと思ってしまって涙が出そうになったけれど、出なかった。これは、もう諦めるしかないのかもしれない。寒い寒い雪の降る季節になったら治るかもしれないから。(もし、治らなかったら私は間違いなく留年しているのだろうけれど)それはそれで、受け止めよう。人間諦めが大事なのさ。 「わりー!」 遠くから近づいてくる声に心臓が一瞬、停止した感じがした。(その声の人物は、顔を見なくても分かってしまうぐらい、私が知っている人物だった)私は顔を上げようと、力を入れたのに動かなかった。ポトンと落ちていくオレンジ色のしずくが視界に入って悲しかった。前を向きたいのに上げられなかった。筋肉が通っていないかのように顔は上がらなくて、目の前にある自身の力なく投げ出された足とキラキラの緑だけを私は見続けたまま。 それにしても、一体どこからやって来たのか、上からか、それとも下からか。オレンジと同じように彼は突然やって来たのだ。 今まで一体何をしていたのか。不思議だけど、きっとなにかいたずらでもしていたのだろう。それが何で私?と言いたいところだけど何故か言葉が出ない。 いつの間にか近くにまで来ていた彼。謝っている彼の足元と緑を見ているだけで、ただただぼうっと呆然と座り込んでいたのだった。まるで、言葉を忘れたみたいだった。今は言葉全てをなくしてしまっているかのようで、何も言わない私に疑問を感じ(はたから見ればショックで動けない可哀そうな子なのか) 「どうかしたか?」と彼は言った。 けど、その言葉に返したのは私ではなかった。 「あなたが、これをぶつけたの!?」 「あんたのせいじゃない!」と強気に友が言う。 オレンジに染まった私の頭と顔を指差して、非難の声を彼に浴びせる彼女の声。 対して、ムッとしたように彼もまた反論していた。 何故だか、この事件の被害者であるはずの自分が蚊帳の外に置いていかれたような気がして、その2人の言い合いをまるで別世界の物事のように見ていた。春ボケ、春ボケ。これはもう重症かもしれない。 「おーい、なにやってんだよー!」 また、遠くから聞こえてくる声。だけどそれは近づいてはこなかった。ただ、彼だけに向けられて叫ばれたものだった。 どうやら彼の仲間らしい。 2人は何かを伝え合い、目の前にあった彼の足元は、慌ただしく離れていった。 同時に焦りと困惑が入り混じって泣けてきた。 私の顔はまだ上がらない。 「ちょっと、アンタどこ行くのよ!」 「わるいけど、あとで」 「あとでって何よ!」 「今は忙しいんだよ」 彼はそう言って、彼女の言葉を振り切って颯爽と走り去って行く。 「信じられない」と呟かれた彼女の言葉を横で聞きながら、私はやっとのことで顔を上げることができたのだ。目の前に見えたのは彼の後姿だった。ともなく聞こえてくるのは彼等の他愛のない楽し気な笑い声。被害者である私をほったらかしにして去っていくのはどうかと思ったけど、何故かこのときは安心した。あのままの状態だったら一生顔を上げられなかったと思うからで。惨めすぎて耐えられない。そう思う理由は分からないけれど、真上にある太陽に反射してオレンジ色に染まった私の目に熱く焼きついたのは、キラキラ光る彼の姿。涙が今度こそ出そうになった。 でも、出そうになって止まった。何故なら彼がこっちに振り向いたからで、当然のごとく私は真っ直ぐ前を向いて、顔を上げていたから彼の顔をはっきりと見た。そして何故か彼は、私のほうを見ていたから、バチッと目が合った。その瞬間、ヒヤッと体が止まってしまう。動いていたのは落ちていくオレンジだけだった。そんな間抜けな私を彼が見ていたのは本当に一瞬だったのだけれど、酷く長く感じたのは。 ああ、そういえば・・・ 気がつかないように、気にしないように。なんでもないかのように、忘れられた筈のことなのに、不意に過るあの一瞬のこと。 キラキラ光るオレンジと太陽に照らされた彼が動き出した。 残像だけが残っていく。 本当は忘れられない。 思い出せば、夏はもうすぐやって来る。 太陽とオレンジと緑は、私に沢山のモノを残していってしまった。 あの時、すれ違った廊下 目が合った瞬間から 見てみぬふりをしている片思いにやっと気づく |