(考える人) 「気持ち悪いなぁ」 自然と喉をすり抜けた言葉に、首がひん曲がって痛そうだと思えるぐらいに下げていた首を彼はゆっくりと上げた。 久しぶりに、というか数分しか経っていないと思うが何故か、その顔が懐かしく思える。 それと同時に悔しさというしょっぱさが胸に残った。 そして、何かあるなら早く言えというような早急な顔に子供のように腹が立つ。 この男という人間が今まで生きてきた中で一番憎たらしいと思えた瞬間だと私は悟った。 「こう、あなたが真剣に考えてるのって気持ちが悪いんだよね」 そう言うと、あなたはにっこりと笑う。 その顔が恐ろしい。 だけど私は勇ましい戦士のように立ち向かっていく。 もう、いつもの私はいないのだ。 「君にはトカゲを口の中に溢れるほどプレゼントしてあげよう」 「そんなもの欲しがるのはあなただけよ」 「愛がないなぁ」 眼鏡の向こう側を潤ませた瞳が太陽に反射する。 もはや神さえもこの男の味方なのか。 だけど、今日の私は一味違った。 「あーやば、吐きそ」 「うわぁ、かなり傷つくな」 「傷ついていないくせに」 「ああ、今ので僕の心は粉々さ。ロンリーハート」 「・・・」 「・・・」 「・・・・・・」 「どうしたんだい、黙って」 「・・・まあ、いいやどうぞ思う存分考えて」 「ねえ、その間は何なの」 問いかけた言葉は返ってこない。 彼は一回転した思考をまた回転させる。 興味がなくなったのか額を無様に机に擦りつけた彼女を眼鏡の奥に潜む目で見た。 そこには力を出し切ってしまったという感じで項垂れている情けない女がただ俯いているだけだった。 彼女の額はテーブルによって容赦なく熱を奪われているだろう。 「君は」 「・・・」 「おーい」 「・・・」 「そこのお姉さん、プープー応答願います」 「プープー、只今接続不能デゴザイマス」 「良かった、生きてた」 「・・・プー接続不能」 彼女は顔を上げることはなく額をテーブルにつけ続けた。 長いキスをしているみたいに引っ付けていた。 それは数分前の彼と彼女の立場が逆転したことを意味している。 彼女によって難しい本から顔を上げさせられた、彼の異常な集中力はどこかに飛んで弾けて消えてしまったのだ。 バタンといかにも分厚いです!と主張しているような音を響かせて本が閉じられる。 閉じた後で彼が、しおりを挟むのを忘れたことに気がつくのは、再び集中力を開花させるときだった。 「気持ちが悪いのなら吐いちゃえばいいよ」 そう、全て吐き出してしまえばいい。 心が軽くなるほどに全て空っぽにさせてしまえばいい。 理由もなく細めた目で真っ白な天井を何かを求めるように見つめてみた。 「吐けないよ」 「何で?」 彼女は動かない、彼も動かない。 それでも言葉だけがこの空間に飛び交っていた。 相変わらずのめんどくさがりな人間だと思いながらも、彼は問う。 だけど同時に、自分も人に文句を言えないほど、めんどくさがりなのだろうと思うと小さく鼻で笑う。 「吐けるものなんてないから」 「意味が分からないよ」 「吐きたくても喉を突っかえてしまうんだよね」 「何を吐き出そうとしているんだ」 「ああ、気持ち悪いなぁ」 自分の不利になる質問は完全に無視。 これが彼女の流儀だと以前教えてもらった気がする。 ふと、遠き昔の良くも悪くもない思い出を引き出しの中から掘り出して思い出した。 脳みそが空っぽの人間のように思える彼女の髪が、重力に負けてパラパラとテーブルに落ちていった。 吐き出したいものはいつも喉元で突っかかってしまうのだ。 何かが急ブレーキをかけるように止めてしまう。 それが自分自身の弱さだということには、ちゃんと気が付いていた。 分かっていたけど、しらんぷりをして通り過ぎて背を向けていた。 彼が真っ白な天井から目を離して二酸化炭素を吐き出して酸素を取り入れた。 当たり前な呼吸音がその場に響き渡って緊張か何かで喉がまた鳴った。 「おーい」 「・・・」 「おーい?」 「・・・」 「聞こえてるー?」 「・・・」 「生きてるかい?」 「・・・」 「全く動かないね」 「・・・」 「おネーさん、応答願います」 「・・・」 「死んだ?」 会話はいつまで経っても会話にならない。 傍から見ればただの独り言を話している彼はさぞ哀しい人間なのだろう。 だけど、それでも彼は諦めなかった。 数分前の元気だった彼女を取り戻すかのように。 いや、違う。この男は元からこういう人間だった。 「プープー、そこのお姉さま、お嬢様、奥様、応答願います」 「・・・」 「プープー、死んでしまったのなら仕方がないね」 いつまでも、こんな寂しい場所でこうしている暇もない。 だけど、いつまでもこうして静かに過ごしてしまいたいと思った彼がいた。 いつもと違った。 いつまでも、こんなものを押さえつけているだけじゃダメだと言うことも知っている。 そして今まさに、この状況で変化を求めているのかどうか。 それが、分からなかったが、真っ白な天井を見て考えた挙句にそれらがパンっと弾けた。 結局のところ弾けたものが何かは知らない。 どうでもいい。 「応答願います」そう再度、彼は言い直し、接続を試みる。 それでも死んでしまった彼女に接続は不可能なのだろうか。 「プープー、死んでしまった君へ」 そうして喉元からすり抜けた言葉が呆気ないほどに空気を揺らす。 「僕は君が好きだよ」 風もないのに彼女の髪が動いて、それを眼鏡の奥で彼は眺め続けていた。 「あ、動いた」 プープー、生きていました |