G エンド





















数日後、台風は過ぎ去っていった。
だけど、台風は思いもよらない足跡を残していった。



男は背中を椅子の背もたれに預け、ゆっくり呼吸をする。
可笑しなことだが、最近はちゃんと呼吸をしていなかった気がしたからだ。

見れば、ムカつくほどに晴れ渡っている空が綺麗で
眩しいほどの太陽が窓から差し込んできていて
まるで、すべてが嘘だと思わせてくれそうだと、ふと、思った。

そして、空を飛んでいる鳥が軽やかで、自由で何だか穏やかだと感じる。

ズキッっと全身に響いた痛み。
痛いのは全身の傷なのか、心なのだろうか。
そこら辺は分からないが、今は心の中がスッキリしているのは確かだった。
もしかすると、このまま行けば、自分は風に飛んで消えてしまうんではないかと思うぐらい気持ちは軽かったのだ。

思い残すことなど何もない。
幸せな人生を送ってきた、今まさに死んでいく老人のような気持ちに浸りながら、我ながら情けない思い付きだと思った。

眩しい光に慣れた目を少しだけ上に上げる。
その時、顔に黒い影が覆いかぶさった。

頬に触れる、長い黒い髪から香るシャンプーの匂い。
同時に鼻を突き刺す独特のツンとする匂い。
現実逃避していた浮かれ気分は、その消毒液の匂いによって現実へと引き戻された。
目の前には、消毒液を染み込ませた綿をピンセットで持っている、怒っている表情をした彼女







「ねえ、何であんな事したの」




彼は、ボーっと何も考えずにいた。
無理やりに連れ込まれた保健室で、抵抗することなくイスに座っていたが、
彼女の問いに、逃げるようにして、窓の向こうへと視線を移せば、すかさず彼の頬を彼女がつねった。
もう逃がさないと言っているかのように、きつく掴む。



彼の流れるような真っ直ぐの綺麗な髪の毛は、数分前の乱闘によってボサボサだった。
いつもそうだが、だらんと首にかけられているだけの形だけのネクタイは、どこへ消えたのやら。
その、破れてしまったシャツの襟もとからみえる肌が色っぽくて目のやり場に困る。
赤い痛々しい傷は、顔と首元、隠れている部分にもあるだろうと思われる。
数箇所すぐ見つかるだろう。

その破れたシャツも傷口もボサボサの髪の毛も、カッコ悪いとされちゃうところだけど、彼にかかれば、それさえもファッションのように見えた。
外から差し込む太陽が、彼を引き立てているように照らし続ける。
太陽さえも今この瞬間、彼の為だけに存在しているような錯覚に陥る。

彼女は、何だかその完璧さに無性にムカついて、消毒液を染み込ませた綿を彼の口元に痛々しく広がる傷口に荒っぽく押し当てた。





「いッ・・・」




ハッキリと、痛みが明確に脳へと送り込まれる。
耐え切れなくて彼は声を零す。反射的に顔を背けた。

だけど、目の前の彼女に気遣い、一瞬背けた顔をまた戻す。

今、彼女との距離は測るほどもないほどで。
真剣に彼の傷口を消毒する彼女の姿。
今日までの事を思い返せば何だかとても現実的ではない。





「もう少し、優しくしてくれ」
「この精一杯の優しさが伝わらないっていうの?」
「・・・そうですか」
「そうですよ」




じんじんとする痛さで、歯を食いしばって、閉じたくないのに自然に目を閉じてしまう。
微かに、その目から涙が滲んでいた。

キラキラ光る、その目に滲む涙は彼女にとって、とても愛しいと思えるものだった。

言わば、彼には涙さえも様になってしまう。
その存在感はどこから出ているのかと聞きたくなるぐらい、強い。
彼が笑えば、きっと女子生徒の半分以上が鼻血を大量出血し倒れていってしまうんではないかと思わせるほどで。
じゃあ、涙を見せればどうなるのだろう?
ぼんやりしている、まるで夢の中に陥ってしまった頭の中で、そんな事を考えた。


そのせいで、無駄に消毒液を染み込ませた綿を持つ手に力が加わってしまった。
彼の傷口に力いっぱい押し付けてしまう。


「いッ・・・」
「ああ、ちょっと、黙ってよ」
「無理言うなって」
「消毒液、口に入れてほしいの?」
「それはやめろ」
「じゃあ、しゃべらないでよ」




彼女は新しい綿に、消毒液を染み込ませた。
そして、また傷口にそれをあてる。
彼が痛がっているのを無視して続ける。気にしていないようだった。
惚れた弱みに付け込まれ、今までは甘やかしていたが、苦い経験が彼女を変えた。
今ではもう彼女は彼を尻に敷いている。
そもそもどちらが、惚れていたのか、そこから問うべきなのだが。





ああ、こんなにも近くにいる。
それだけで、これほどに緊張してしまうなんて。
久しぶり過ぎて、もう何が何だか分からなくなってきてしまった。
だけど、そう思っているのは自分だけだと思うと、傷が更に痛みを増す。
そう、数時間前まではそう思っていた。







でも、今は。




「よし」


消毒を終えて、ガーゼをあてて一通り完了した。
そして、上げていた腕を下ろす。
長時間とまでは行かなかったが、ずっと腕を上げていたせいで二の腕に痺れが来ていた。


顔と腕の傷は大体が消毒し終わったであろう。
1人それを確認して、消毒液を片付ける。
その姿を見て、彼が小さく「ありがとうな」と言って、ボサボサだった髪を荒っぽく手で整え始めた。
その何気ない彼の言葉と仕草に、温かく感じてしまい無性に愛しさが募った。



キュっという、消毒液の蓋の音が締まる音ともに、彼女は温かい熱をどうにか押し止めながら深く息を吸った。




「ねぇ、何で、あんな事したの」


先程、避けられてしまった質問の答えを求めようと、再度口を開く。
彼の目は宙を泳ぐ。
戸惑いを隠せない目だった。
時々だけど、彼が何を考えているのか分からない目をしている時がある。
その目がずっと怖かった。
でも、今わかった。きっと彼はこの幼過ぎる自分を隠していたのであろう。
そう分かった今、彼女は自然と口元が緩んでいくのを感じた。




「何で、あんな事したの」


かみ締めるように、ゆっくりと伝わるようにハッキリと声に出す。



1時間ほど前、彼はある目的をもち、親友のもとへやってきていた。
その現場にいた生徒によれば、ズンズンと迫って行き、二言三言しゃべった後、突然殴りかかったのだった。
いきなり彼が殴りかかったらしい。親友同士であるはずの突然の2人の乱闘にその場は混乱した。
その後は、必死で彼を抑えようと周りの生徒と駆けつけた教師がその場を収めた。


そのあと、取り押さえられた彼に、殴られっぱなしだった親友の男は仕返しといわんばかりに彼に一振り殴りかかった。
しかも、「彼女とは何にもない」「彼女は今も君が好きなんだ」と言いながら。

あの穏やかなあの人が殴りかかるなんて、珍しいこともあるものだと、周りの生徒は口をあんぐりさせていた。
親友であった殴られた彼自身さえも、吃驚していたのだ。

けど、互いの行動の意味を分かっていたのは、本人同士だった。
騒ぎが収まったその後は、何も言わなかった。
お互いにただの喧嘩と謝罪をして、なんとか穏便に解決することができた。
意外なほどに彼は親友が、自分を責めないことに拍子抜けをした。

ただ、彼に強いたのは、少し遅れて駆けつけて来た彼女に強制的に保健室に連れて行ってもらえと言う事だった。



周りのざわつく声
痛い視線
クラスメイトの吃驚した顔
親友の怒ってもいない、呆れた、どこか穏やかな顔

けれど、全てが変なことに、どうでも良かった。
彼女が反論せず、自分を保健室に連れて来てくれたことが珍しかったのも確かだ。
これまでのことを思うと、ありえない事だったので他のことなど考えられないほど浮足立つ。
どうでも良くなってしまったのだ。




「あの、なんて言ったの」
「聞きたいか?」
「うん」


彼はじっと真っ直ぐ彼女を見ていた。
彼女は、しばらくの沈黙の後、観念したように深くため息をついた。
そして一言「ごめん」と彼に向かって呟いた。
その言葉を予想していたのか、彼はイスにもたれ掛り、両腕を前に組む。



彼があの時、親友に何を言ったかなんて、よっぽどのバカじゃない限り分かる。
極め付けに、その原因が、彼女の嘘の発言なのだから当然。

短く溜息をつけば、ぶるっと空気が大きく震え出す。

それは、温かい風に乗って伝わる、彼女自身の震え
彼は真上に上りつつある太陽の光が眩しくて、目を瞑った。


「私、嘘ついたの」
「ああ」
「ごめん、なさい」


ぼわんぼわん、とまた遠くになりつつある記憶にさようならできたら、どれ程楽なのだろう。


「あなたの友達と寝たなんて、嘘」

「付き合うって言うのも嘘」

「悔しかったから、だから嘘をついたの」


目頭が熱い。
泣いてしまいそうになるが、鼻をずっ、と吸って無理やりに涙を奥へと押し込めた。

彼女にだって言い分はある。
そもそもすべては彼が悪いのではないか。
ここで泣いてしまうのは、やるせない。
全くもって、そもそもの原因は彼。


それじゃあ、謝るのは彼の方ではないのか、と思う。
「ごめんなさい」と己が言った後で悔しさを胸に思う。




「私のこと好きなの?」




そういえば、数日前にも似たような質問を投げかけたな・・・
忌まわしい記憶が頭の中を過ぎていった。

そんな彼女を彼は見つめた後、視線をはずして辺りを見渡す。
未だ分かっていない彼女自身に、怒りが溢れ出してきそうになって、彼は近くにあったテーブルに拳をドンっとぶつけた。
そして、八つ当たりされたテーブルは揺れ、そこに置いてあった消毒液が、足掻いた末に音を立てて転がった。
その一部始終を強張った面持ちで見つめていた彼女。
彼女にだって殺意を覚えたことがあったのだ。


「俺はアイツに嫉妬してたんだよ」
「・・・は、?」
「ムカつくんだよ。何かあれば、お前はアイツのところに行って相談するのが」
「な・・・」





「何で」という言葉は喉を通らなかった。
真剣な顔の彼がいたからだ。
こんなに怖いほどに真剣な顔をした彼を見るのは数えるほどしかないだろう。
こんな目で見られたら、動くことすら間々ならなくなってしまうほどに強い眼差し。
それが今は、太陽さえも彼に味方しているのだというのに。







「もう、限界だった」






そう言って、力なく笑う彼に、彼女は己の過ちに今更ながらようやく気がついた。
知らないうちに、私が彼を傷つけてしまっていたなんて。
全く持って失態。気がつかなかったなんて。最低だ。鈍感な人間だと思われても文句は言えない。









「まだ、私のこと、好きでいてくれてる?」






なんて、情けない質問だろう。
だけど、それしか今の彼女には言えなかった。
言葉が見つからない。

言いたいことが多すぎて、頭が混乱する。
振り絞るようにして出した声が彼に届いたのかすら分からない。

テーブルから転がり落ちる寸前の消毒液が、太陽の光で一瞬反射していった。








「バカか。俺は、ずっと殺したいほど、お前を愛してる」






まるで、初めてその想いを告白されたときのような熱い彼の真っ直ぐな瞳。
その彼の瞳に写ったのは、頬を赤く染めて涙を流す女の姿だった。



ただ、温かな風がリズミカルに窓を叩く音が、春の訪れを感じさせていた。













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