「今まで何人の人間を殺してきたのかなぁ」
「は?何言ってんの、お前」
静まり返った図書館。私は1人ここにやってきていて、けど本を読むことは愚か、何もしていなかった。ただボーっとしていて、ふと何気なく誰にも聞こえないようにと、聞こえないだろうと思いつつ、それは呟いてみた言葉だった。
しかし意外なことに、それに返事が返ってきた。しかも呟いてから数秒も経たずに、だ。そのことに少なからず驚いたけれど、大して驚いた様子は顔には出なかったと思う。何故か驚いたというよりも、ずっと1人だと思っていたこの場所で、私の言葉を聞いて、返してくれる人がいたということに嬉しさもあったのだから。まぁ、どこか馬鹿にされたような口ぶりで言葉だったけれど、そこら辺は多めに見てやることにしていて、まだまだ自分は捨てたもんじゃないかもしれないね、と何となく最近ブルーになりつつある自分の心を励ましてみる。
けれど、いつまでもそんな感情に浸っている訳にもいかなくて、せっかく私のふと呟いた言葉に返事してくれた男に対して、こちらも返事を返さなければ失礼だと思ってしまったからだ。私は冬の寒さのせいで、ひんやりと冷え切って感覚のなくなってしまったきりの指を動かす。
最後に動かしたきりのままの形で指は硬直していた。頬にかかった長いのか短いのか分からない中途半端な黒い髪をはらう。
そして、俯いていた顔を上げた。
そこには予想通り整った顔に長い足をさも自慢しているように嫌味たらしく組んでいる(もしも誰かがここを通ったら、長い脚に気づかずに躓いて近くのテーブルの角でおでこを打って医務室に運ばれるに違いない、とまで想像して)その長い脚の男を見た。
想像していなかったのは何故か彼が呆れた顔でも笑っている顔でもなくて、妙に真剣な顔でこちらを見ていることだった。
もしかしたら、今先ほどまで読んでいた本がとてつもなく難しかったから、そのせいで男の顔までもが、そんなに厳つくなっているのだろうと思った。(現に彼が手にしている本は、私がどう頑張っても地球がひっくり返ったとしても、理解できないだろうと思われる難しい本だということを一瞬だけ見え隠れしたタイトルが物語っていた)から。
しかしながら、どうしてか。彼は、本ではない、別のことに対してそんなにも真剣な顔になっているのだと理解した。この空気から伝わってきたのだ。
そんな顔にさせてしまっている理由の候補に、私の穏やかでない存在が浮上する。でも、あえてそれには気がつかないフリをして(何かめんどくさくなりそうだったからで)鼻をフフンと鳴らして得意げに、何故自分でもそんな鼻を鳴らしたのか分からないけれど、何となく余裕ですよ!ということをアピールしたかった為だ。
でも実際は余裕などなかったのだけれどね。
「そのまんまの意味」
「意味分かんねぇ」
「分かってよ」
「分かるか」と即効で、間髪をいれずに返ってきた。
先ほどとは違って鋭さも混じっていた。
しかし、そんなことで私が怯むはずもない。何度もこの鋭い視線に似たものを私は味わってきたのだから。
堂々と睨み返してやったら、彼は舌打ちと共に
「分からないから聞いてるんだよ」と言った。
彼の舌打ちに、冷たい指先が震え、態度とは裏腹に、どこか寂しげに聞こえた彼の言葉に私の心はどこか揺れていた。
何故そんな顔をしているのか、させてしまっているのか全くといっていいほど分からなくて自分がとても愚かで最低で無力な人間だと思った。いや、本当に。実に、私は愚かで最低で何の力も持たなくて(私にかかれば全てが無意味なものになってしまう始末で)この場所の寒さに余計に泣きそうになった。
9月といえども、何故か寒くて寒くて寒くて仕方がなくて、心はひんやりと冷たくて仕方がない。金槌で小突いてみたら何の抵抗もなく私は割れてしまうに違いないと心の奥底でふと考えた。
けれど、目の前に座る彼は、寒さなどまるで感じていないかのように、ケロリとした顔で、私がこんなにも寒いのは気候のせいじゃないという事を知ったのだ。ここは私のいるべき場所ではないのかもしれない。そして家族もいなくて、いつも私は独りぼっちだ。惨めになってしまうのだ。
そんな時、ひどく敏感に感じ取ってしまうのは、周りからの鋭い視線と痛い言葉だった。確かに最初は、そんな中傷や視線が向けられるということは覚悟もしていたし「やっぱりなぁ」という気持ちのほうが大きくて半ば呆れていたけれど、さすがに仲のよかった友達と目が合わなくなり、無視され出した辺りから、なにか異変を感じたのだ。そのうち「死ね」とか言われた時は、さすがの私も堪えた。耐えていた。そういうことには、慣れていたし大丈夫だと思っていた。なのに、
そんなもの、結局はただの強がりで本当は周りの鋭い視線も言葉も友達からの裏切りも拒絶も、全て、痛みとなっていた。教科書を焼かれるとか変な臭いのする液体をかけられたり殴られたりすることに辛くて辛くて仕方がなかったのだ。
所詮、私みたいな美人でも頭がいいわけでもなく周りからの信頼も厚くなければ人との付き合いが得意じゃない、世渡り下手の私など、この世界に受け入れられることなどなかったのだ。ただ、それだけ。それだけだ。それだけだけど、悲しかった。
私を一番認めたくないのは、私だ。
本当に自分がよく分かっているのだ。でも、私だって生きている。生きていくこと、それだけは譲れなくて何としても守らないといけないものだった。
友達だけは、私の味方だと思っていた。隣にいて一緒に苦楽を分け合える存在だと思っていた。思ってしまっていて、でも現実は、違う。そんな事は微塵もなくて、私の思い違いだったみたいだ。それは完璧に崩れ落ち消えていった。
友達は私の元からはなれて、他の人達と共に、気がつけば私を攻撃する側に回っていたのだ。最初は信じられなくて、でも彼女から「死ね」という暴言を吐かれたときに、もう私の中では、何もかもが真っ白になった気がする。人間というのは本当に難しい。妙に静かに、穏やかに、他人事のようにそう思ってしまったことに対して自分でもおかしく思えた。そのことは今でも覚えている。
まぁ、それももう2年も前のことなのだけれど。
「ねえ」
「あ?」
「あなたは人を殺したこと、何回ある?」
「お前さ、大丈夫か」
「いやいや、いたって健康ですけど」
アハハと明るく笑って見せても彼の顔つきは依然と厳しいままだった。ああ、言葉をもう少し選べばよかったと思ってももう遅い。
「あー、えっと、・・・そう!」
「・・・」
男は、私を変な人を見る目で見ていたけれど、慣れっこの私は気にすることもなく、無視して言う。
「頭の中で、妄想で殺すってこと」
「は、ぁ?」
「嫌いな人がいたら、頭の中でその人を思いっきり殴ったりっていう想像をしちゃったりしない?」
「・・・」
「(何その顔は!)」
彼は、少し考えるようにしてテーブルに本を置いた。やはり、その本はどう見ても難しそうな理解不能なタイトルだった。
そして、寒くて寒くて寒くて冷え切った指たちに、いつの間にか感覚が戻りつつあった。
生き返ってくるのを微かに感じて何故か安心した私がいた。
「お前は」
「んー?」
「お前はどうなんだ」
「何が」
「だから、人を殺したこと」
「あー、あるよ」
「ふぅん」
彼は、私に聞いておいて、気のない返事を返す。
少し気に触って、わざと私は目を細め鋭くさせた。
「んー、私はもう100回は殺してるねぇ」
得意げに言う。回数は若干、見栄を張ったかもしれない。(というか、こんなことに見栄なんて張らなくていいかもしれないけれど)
しかしながら、自慢できるようなものではないし、異常かもしれない。興味がなくなったかのように見えた彼を驚かせたいというか、もう1度、人間らしい反応を見せて欲しいと思い、過剰に言ってしまったのである。
でも実際は、本当は、こんな数字では、きかない程に、私はもう多くを殺してしまっている。
何度も何度も、同じやり方で残酷に気の済むまで私は、私の中で殺し続けてしまっている。かなり危ない人間だと思われても仕方がないけれど、こんな風にでもしなければ、私がつぶれる。
私のほうが、現実に殺されてしまう。
頭の中のありとあらゆる全ての神経が競うように張り詰めて、今にも切れそうな状態だ。痛くてズキンズキンとしていて、泣きたくなくても、泣いてしまうときがあって苦しい。そして、過去、私は友達だった彼女にさえ牙を向けてしまったこともあるのだ。悲しくてイライラしていて憎くて仕方がなかった。
今では2年前のように、それ程酷いことをされたり、暴言を吐かれることは少なくなったけれど、同じ学校にいながら、互いに存在を消し合う。目は合わないし言葉は交わさない。あの時は、それが当たり前のことになってしまうなんて想像もつかなかった。
確実に日々は過ぎていたのだ。
2年も経っても、私は何とかここにいる。
それは、私が私だけが知る、私の中で私に幾度も殺されてきた者たちのおかげだとつくづく思うのだ。
「お前って暇な奴だな」
「失礼ね」
「そんな事考える暇あったら勉強しろ」
「うるさーい」
ああ、どうせ私のこの悲しくて苦しい気持ちなんて所詮、分からないんだ。
いいよ、もう。こんちくしょう!イケメンなんかに分かって溜まるか。
別に寂しくなんかないし、悲しくないんだから。もう、平和に過ごせる、ただそれだけでいいじゃないか。何をずっと過去に囚われているのだろう。バカみたいだ。
そして、あの時から進んでいると思っていたのに本当は一歩も進めていなかったことに気がついてしまっていたけど、どうしたらいいのか分からない。分からない。分かるわけない。もう、何も苦しい思いをしてまで考えたくなかったし、考えるのはとうに辞めていた。
冷たくて鋭い視線と暴言と暴力で私をねじ伏せようとする憎い人達を頭の中で殺していくことだけが私の生きる力だった。そのおかげで今の今まで、何とか自分という人間を保つことができていたのだ。良かった。こんな風に妄想している自分に酷く吐き気がする。汚くて愚かで最低でどうしようもない人間だと言うことは痛いほど知っている。けど、全てもうどうでも良くなった。彼女についても、どうでもよくなって忘れようと思っていた。
それなのに、やっぱり忘れることなんて出来なくて
今になって、とうとう、この2年間ずっと止まったままの
引っかかった何かが弾けてしまったようで息ができないほどだ。
何で、今頃。
「もう、頭の中で殺すな」
「・・・」
返事を返す余裕がなくて、言い訳するのも、めんどくさかったのでやめた。そうしたら、彼は立ち上がって座っている私に近づいた。座ったままの私の横に立った彼は、何故かこのとき「バカだな」と呟いた気がする。
その言葉は、聞こえるように言った言葉ではなくて、本当に微かに零れ落ちた言葉だった。
「じゃあ、もう誰も殺せないようにしてやるよ」
そう言って何かが私の視界を遮った。その何かに気がつくまで少し時間がかかったけれど、それは彼の大きな手だった。大きな手が私の目を覆う。私とは全く違う彼のその手は温かくて温かくて優しかった。耳元で聞こえてくる声。
「こうしていたら嫌いな奴を見なくてすむだろ」これが彼なりの優しさであって心配してくれているという証拠なんだろう。他人なのに、なんて優しい人なのだろう。イケメンで優しいなんて、なんて酷い。同情されたり心配されることが人一倍嫌いな私だが、このときは何故かこの情けに甘えていようと思った。勝手だと思う。自分でも嫌なぐらい周りに悩み事を話すことを恥じと感じ、辛いと正直に言えないことが、小さい頃から自分に科した定めだった。ああ、今更それを変えることなんてできない。
そして、気がつけば温かい手に全てを任せて目を閉じていた。
頭の中に浮かんでくるのは今まで、私の中で大人しく殺されていった人たちではなくて、私の友達だった彼女だった。数日前、わたしは彼女を久しぶりに見かけた。けれど、彼女は1人ではなく、知らない女の子と一緒に歩いていた。
私は咄嗟に隠れた。
その時の何ともいえない気持ちを今でも鮮明に覚えていて、感じるのだ。寒い季節ではないのに、手が冷たくて仕方がないのは、その時からかもしれない。彼女は笑っていた。楽しそうに笑っていて、まるでこの世に、意地汚い、恐ろしいものがある事など何も知らない無垢な子供のような顔だった。「死ね」など、彼女の口から出ることなど、決して考えられないほど優しい笑顔をもう1人の女の子に向けていた。思えば私にも、その笑顔が向けられていた時があったのだ。でも、それは昔だ。昔の話だ。今は違う。いつまでも、過去に囚われて動けなかった。そんな自分がとても腹立たしく思えてきて、私は私を殺した。頭の中で殺していた。本当、人間って難しい。
「なぁ、お前さ」
ふ、っと目から離れていく温かい手に寂しさを感じながらも、私自身が既に温かさを有していた。彼の熱が私に分け与えられ、指先に熱が戻る。
ああ、それとも、その温かさは、私の頬を伝う何かのせいだったのかもしれない。
ゆっくり、ゆっくりと。目を開けると、先ほどまで暗く暗く感じていた世界が、とても明るく見えている気がした。
目の前にいる男が笑っている気がした。けれど、眩しくてその顔がハッキリと見えなかった。いや、それか視界が歪んでいたから見れなかったのかもしれないけれど。
「またな」
そう言って彼は、私の髪の毛をくしゃりとかき混ぜたあとテーブルにあった本を一瞥した。
「難しいです!」と自己主張が半端ないタイトルのその本を残したまま彼は出口へと向かう。
追いかけようとはしなかった。
彼がいなくなったのを見計らって、私はゆっくりと立ち上がった。
彼が読んでいたと思われる、置いていかれたその難しいタイトルの本を手にとって、適当に本棚に戻して歩き出す。
私が歩き出した先に見たものは、眩しくて眩しくて仕方がない、私には勿体無すぎるほどの十分な太陽の日差しだった。
ああ。今は、それがあれば大丈夫。きっと、大丈夫。
それでも、どこか心の中には、痛みを伴う何かが残っていて、私は頬に伝う涙を右手で荒々しく拭いた。
鼻水も出かけていたけれど啜って食い止めた。
もう、殺されたのは私で最後だから、
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