見えない糸 「おい、お前」 憂鬱などす黒い空を見上げては溜息が出てくるこんな雨ともいえない曇りの日にあたしはふと、突然に後ろから声をかけられた気がした。でも、まぁ、気がしただけで声をかけられる事はまれにしかないので(しかも声をかけてくるのは嫌味な女子か眼をキビキビに光らせた女教授ぐらいで)こんな友達のいない(何とも思っていないような顔で自分で言ってたりするけど結構寂しかったりする)あたしに声をかける人なんてこの世にいないのだと思ったものだから、そのまま無視して振り向かず歩き出そうとした。何せその声の相手は「お前」としか言ってないのだから自分を呼んでいるとも限らない。だけど「お前」と呼ばれて当たり前だということになぜか気がつかなかった。自分の名前を知らない人が呼ぶときはやっぱり「お前」になってしまうかもしれないからで、というか、振り向くことが面倒くさかったのかもしれない。名前を知らなければそう呼んで当然なはずなのだが、今は無視をしたかった。それも憂鬱なこの空のせいか、いつも以上に、あたしの頭の中には変なことばかりが渦巻いていて数分前の講義の内容さえ忘れてしまっている始末だ。嗚呼、渦巻く思いが加速していく。何だろう、何だ。何がしたいんだよ。 そう、例えば今あたしがこうしている間にもこの世界のどこかでは、晴れ渡る青い空が広がっていたり、その下を駆け回っている犬がいるだとか、こんな中途半端な空なんかじゃなくて土砂降りの雨に見舞われている街とか、眠りにつこうとしているその瞬間とか、今まさに夜が明けて眠りから覚めようとしている人だとか、そんないろんな本当に大きな事たちが頭の中に駆け巡った。まるで世界を一周しているみたいに。 「って、無視かよ」 安っぽい夢の夢の中へと旅立つ寸前のあたしの心を引き戻したのは数秒前に聞こえてきた何となくドスの聞いた、顔を見なくてもその不機嫌さが分かるほどの声だった。一体、何を言っているのか。その声に背中越しにあたしは進む足をふと止めて考え振り向く。その瞬間、呼び止められていたのは、自分だということに気がつき、そして周りに人はいない。あたしと呼び止めた相手しかいないことに漠然と気がついたのだった。全くもってバカな話である。小さい頃によく母に、あたしは抜けていると言われていたけれど今日、今、この瞬間、やっと自分の抜け具合をくっきりと自覚してしまった。それだけにショックを受ける。これだけはどう本人が頑張っても簡単にいくことのないものなのだと分かっているし、どうしようとか思う気さえない。だるい。鈍くて抜けてて結構。 ドスの聞いた声の持ち主は何とあの彼だった。 「な、何か用で・・・ 「これ」 最後まで言葉を言わせずに目の前の彼はあたしに拳を突き出してきた。喧嘩を売っているのかと思い(この不機嫌な今にも殴られてしまいそうな雰囲気に思ってしまったのだから仕方がなく)、あたしの額にも彼と同じく皴が寄った気がしたけれど、その拳に握られているものを見て自分が何故、呼び止められたかを知る。知ったけど別に、それはあたしにとってどうでもいいモノだったから早くこの場から立ち去りたかった。はい、さようなら。 「落とした、お前のだろ」 あの彼がこんなものを握っているのかと思ったら、というか自分と今話していること自体すごいのかもしれない。まぁ、話している内に入らないかもしれないけど。チッっというかなりご立腹のような舌打ちが、頭上からあたしに向かって降り注いできた。目の前に突き出された拳がいつの間にか開いていて、嗚呼また魂抜けてしまっていたと悟った頃には遅く、先ほどより彼の不機嫌の悪さに拍車がかかり、倍増しているようだ。 「早く受け取れよ」 イラ、イライラ、こっちまで息苦しくなってしまうほど伝わってくる。 「いらねぇのか?」 吃驚するほどタイミングよく開いていた窓の向こう、どす黒い空へと向かって彼はそれを外に投げるような仕草を見せた。早くあたしが受け取らなかったのが悪いのだと思うけれど、本当は偶然落ちたわけではないんですよ。ああ、もう何てことしてくれるんだよ。気がつくなよ。ほっといてよ。そんな物このまま、ここに置いてけぼりにしておいてくれたらいいじゃないか。バカ。 「いらないんなら捨ててやるよ」 「うん、いいよ」 「ああ、捨ててやる・・・って、今なんて言った?」 どうしてか。彼はあたしの方を振り向き、吃驚したように目を見開き、顔をまじまじと見てきた。何をそれほどに吃驚するのか聞きたいぐらいだった。いや、あたしが可笑しいのかもしれない。落としたものを拾ってくれた人に、それは「いらない」というなんて。でも、もう、それはあたしには必要ないから、 「だから、捨てていいよ」 「お前、のだろ」 「違うよ」 「嘘付け」 「あたし、そんな趣味悪い指輪なんて、しないよ」 ねぇ、もう忘れたいんだよ。忘れさせてよ。あたしのじゃないんだよ。違う、違うから。そんなもの、あたしは知らない。もう、いらないから。消して。やっとこの指から落とせたのにどうして拾ってしまったの?彼の手の中にきらりと光る花形に彫られた飾りが今でもあたしの心を掴んでいる。大好きだった。大好きな指輪だった。世界で1番素敵な指輪だった。でもね、今はもう辛いだけ。 「いらないのか?」 「だから、いらないってば」 「今、落としたんだろ?」 「じゃあ、あげるよ」 「いらねぇよ」と苦笑して彼は窓に向かっていた拳をあたしの方へと引き戻した。 「捨てていいよ」 「いいのか」 「もともと落としたわけじゃないから」と笑うあたしは本当に笑っているのだろうか。 「これ男からもらったんだろ」 「あー、分かる?」さっすがだね、と言えば渋い顔がこちらを睨みつけた。 「これを捨てたら泣くんじゃないか」 「誰が」 「お前の彼氏、が」 「泣くわけないよ」 「何で」 「だって、あたし振られちゃったし」はは、乾いた笑いが虚しく、どす暗い空に吸い込まれることなく、無機質な廊下に響き渡った。 だけど、何故ここまで彼は聞いてくるのだろうか。そして、何故それほどに先ほどと同じくまた目を見開けているのか。吃驚しているのか。どうやら本当に今日のあたしは可笑しいらしいのか。いや、いつもだけど。今日は特に。全てはこんなどす黒い空が悪いんだ。それでも、そのどす黒い空以上に彼の不機嫌な顔を見て、これ以上の黒はないのではないかと思ってしまう。彼はなんでこんなにも生きづらそうな顔なのだ。自分の悩みが吹き飛んでしまいそうになってしまった。 「じゃあ、捨てておいてよ」 くるり、と不器用になる足は絡みつく。そのまま体を反転させて方向を変える。言ったものの、指輪を彼に任せていいものかと思ったけど自分ではどうしようも出来ないので、今は彼に押し付けさせてほしい。彼に頼むしかなかった。こんなことになるなんて、ありえない。変だけど運命を感じたのはどうしてだろう。彼は指輪をどうするのだろう。知らない。あたしには、どうでもいいこと。 「おい、お前」 託された指輪を握ったまま、彼はきっとこちらをとても不機嫌な目で睨みつけているのだと想像出来た。だけど背中越しだから、その視線には何とか耐えれる。そして最後の別れを言う。指輪に。さようならを 「お前さぁ」 「お前じゃないよ、あたしは高倉ナナ」 そう、例えば今どこか遠くで幸せなカップルが楽しそうに笑い合っていて、だけどどこかで誰かが泣いていたり、まだ恋をしたことのない子が、大人ぶって背伸びをしていたりするこの時に、あたしはひとり歩いているのだ。引きずったまま、もつれる足を前に進め、歩き続ける。この足では、指輪と共に永遠を歩くことは出来ない。それは辛すぎるから。あたしはそれを捨てた。手放さないと前に進むことなんてできなかった。だけど、失敗に終わってしまった。また、すぐにあたしのところに姿を現してしまった。それは偶然じゃないのかもしれない。本当の別れを今一度ちゃんとさせてくれるために、このどす黒い空に隠された綺麗な青い澄み切った空があたしに、別れの覚悟を与えてくれたんだと思えた。妙に晴れ渡っている心がある。理由は知らない。1つだけ、今は彼に会えて良かったと思えた。 「知ってる」 と、微かに、後ろから聞こえた気がしたけど聞こえなかったふりをする。まだ、後ろは振り向けない。 そして疑問が残る。 彼は指輪を捨ててくれるのだろうか。 |