憎しみは弾けて消えた。
こんなのは、好きなんじゃない。そう思ったときには遅く私の中で何かが弾けたような気がした。けれど、それは本当に気がしただけで実際は弾けてもいない。では砕けてみるかと問えば、否――。私は自ら砕けるような度胸も哀しいかな持ち合わせていないのだと。そんな現状に少し、いやかなり、辛くて耐えられなくなって、冷たいものが私を突き刺し雁字搦めに浸食する。ああ、弾けることも出来ない、砕けることもできない、この感情は、喉元まで出て突っかかってしまっていて呼吸さえするのが難しい。いっそ、このまま死んでしまってこの行き場のない感情と共に葬られてしまえばいいと何度も考えてしまっていて、そしてそんな自分がとても惨めに思えてしまった。そうなのだ。今、私はとっても惨めなほどに寂しい人間なのだと。この冷たい風が身にしみていくのを、嫌なほど痛感していた。きっと、私以上に辛い体験をして嘆き悲しむ人が世界には何万人何億人といるだろう。けれど、人間というのは勝手なもので、どうも自分自身が絶望の淵に立たされたとき、己が一番不幸だと感じる。誰しも自分こそが不幸な人間なのだとその不幸という沼地に浸り。まさに頭の中その絶望の源は湧き上がり続け、ずっと消えてはくれなかった。悩んでいるのは、こんなにも悲しくて辛くて冷たい心を抱えているのは私だけなんだと思う。見える限りのカップルや家族たち。他人を見てそう思わずにはいられない。何だって言うんだ。寂しいから誰かと一緒にいたいとか、くっついていたいとか。そんなの望んでいない。口癖のように「独りは悲しいよね」と言ってくる友人Aに私はにっこりと、笑顔で「じゃあ、誰でもいいの?」と問う。ああ、しかし何て私は不幸なんだろう。寒い、寒い。今にも心臓凍りそう。アハハ・・・それにしても私の視界に入ってくる人達すべてが楽しそうな幸せそうな顔をしている。ああ、憎らしくて仕方がないな。羨ましくて仕方がなかった。私には頬を赤く染めて微笑みかえすような相手が一人もいないのだと実感させられてしまう。別に彼氏が出来たことがないとか恋愛経験なしとかそういうわけでもないし、つい最近まで私には彼氏と呼べる人がいた。確かにいたのだ。妄想でも幽霊でもなくて。まぁ、それも今となっては過去というもので良い思い出にも悪い思い出にもならない日々だった事を(彼には悪いけれど私の心の中には彼という人物はそれ程、というか色濃く残ってはいなかった。ただ、彼という人間がいたということが私の人生の中に残っていっただけに過ぎなくて、その存在もあと何年かしたら、そういえば「ああいう人がいたなぁ」という程度のものになって消えてしまうということも分かっていたから、心の中で小さく彼に謝ってみて)ふと思い出した。付き合ってもすぐに別れてしまう。というか、何故か本気になれない。そこまで彼氏に執着できない。それはつまり1つだけの理由。確実に分かっているけれど、今まで気づかないふりをしていた。ふりをしていたのだけれども、どうも、もうそれさえも隠しきれない状況だったのだから仕方がない。私は私自身を騙しきることは、もう出来ないのだ。これ以上は可哀想だと自分で自分を哀れんでいる自分がいてどうしようもない。悲しいはずなのに何故か笑いが出てきてしまって、その妙に恐ろしい笑いは近くにいたベタベタ仲が宜しく抱きあっていたカップルにしっかりと聞こえてしまっていたらしく、変人を見る目で見られてしまった。そして、私と目が合うとわざとらしく目を逸らす。その彼らの様子に腹がたったものの何かを言ったら余計に変人扱いをされそうだと思い直して、溜息をついて、私はゆっくりと目を逸らす。遠慮がちに座っていたソファーに、今度はどっかりと深く体を預けた。目を瞑った。全て忘れたい。何もかも。全て忘れて目を開けたときには変な笑いでも可愛い笑いでもなくていいから、心から笑えるようになりたい。それなのに、そう思っていても現実は全く持って上手くいかない。隣の席のカップルがカフェを出るとき、女のバッグが私の頬に思いきり当たっていった。反射的に目を開けてしまった。忘れるどころか笑顔も出てこないし、涙が出てきそうになってしまった。そして、その私のささやかな時を邪魔した男女は腕を絡めながら店を出てどこかに消えていた。きっと、二人は熱い時をこれから過ごすのだろう。カップルが座っていたソファーのヘコみがゆっくりと元の形に戻っていく。その様子を観察しながら、あの2人がこれからベットの上で小動物のように動き回るんだろうと考えていた。でも、すぐにそれは消し去った。例え彼氏もいない寂しくて可哀相な私にでもそんな妄想の趣味はないし、そこまで他人の情事に興味があるわけでもないし。そう、ただ己の心に戸惑っているだけだ。ただただ悲しみを噛み締めているだけなのだ。今は、きっと苦しくてもいつかはこの感情も私の人生において取るに足らないもので通り過ぎていってくれるはずで。彼の存在は消えてくれる。消えて欲しい。
あーあ、何やっているんだろう。心からそう思う。今すぐ消えて欲しいのは他でもない自分だ。この私なのだ。なんて暗くてバカみたいな考えなんだろうと思うけれど、それでも、数分前はまだこの世に未練もあったしまだ、生きて行けた気がする。そう、あの言葉を聞かなければ、私はまだ笑って冗談を言ったりできたはずだ。先ほどのカップルに変人を見るような目で見られることもなかっただろう。そこら辺にウジャウジャといるカップルを余裕の笑顔で見れることさえも出来たかもしれない。でも現実は違う。そんな余裕などない。どうしたものか。こんなの私じゃない。私が知っている私は、こんなにも弱くないはずだ。しかも、たった一言で落ち込むなど。へこたれるなどあり得ない。こんなにも人生投げ出したくなるような弱い人間だったなんて。認めたくない。こんなの絶対嘘だ。あんな困ったような顔で笑ってさ。冗談だったらまだ良かったのに、本気で言ってきたのなら、もう救いようがないじゃないか。
私に彼女のフリをしてくれなんて。
誰がそんなものやってやるか。こっちは、本気なのに、向こうは何とも思っていないということを知る。この数年間、儚くも積み上げてきたこの思いがその言葉で、一瞬にして砕け散った。なんてあの人は酷い。微塵も分かっていないのだ。乙女の心を踏みにじった男は他の女に頼むのかもしれない。そもそも、私がそんな事を言われたのは、運悪く彼の告白現場に居合わせてしまったからで、というか、元々いた場所がそういう現場に発展してしまっただけなのだが。いつもと同じように私と彼は何気ない話(互いの近況)をしていたら、突然私たちの間に女が1人割り込んできた。彼しか目に入っていない様子の女は気持ちのいいほど私を無視して彼を見つめ「好きです」と言ったのだった。彼は鬱陶しそうに溜息をついて、すぐ返事をした。その返事を聞いて、去ればいいものを女は一癖あった。いい歳した大人の女が少女のように顔を真っ赤にさせて泣きだしたのである。更に私たちの目の前に別の女が姿を現した。泣いている女を慰めている様子から2人は友人同士のようだ。ずっと事の次第を陰から見守っていたようだった。私が他人事のように(いや、本当に他人事なのだけれど)見ていたら、突然その友達がキッと私を睨みつけてきたのだから、ああ、どうしようか。いかにも、敵意むき出しのその瞳に私は何故睨まれなければならないんだ、と思った。その怒りが私に向けられる。言ってみれば、私は女達からしたら邪魔者、敵に間違いはないのだ。彼の横にいて話をして笑い合う権利を持っている、とても近い存在。そして、私自身、幾度となく言われ続けた「あんた目障りなのよ!」という意味の言葉を、私はまたもや浴びせられてしまって。彼がいる目の前でだ。もはや辛いとか、傷つくとか。超えている。そういう罵倒は、慣れているからなんともない。私としては、振られたとは言え好きな男がいる場所でよくもそんな醜い顔と罵声を晒すことができるなんてなぁと感心していた。行為を抱いていてもそんな醜態をみれば恋も冷めそうだ。そんな態度が気に入らなかったのか、泣いている女を庇うように背に隠して僅かにしか空いていなかった私との距離を高速で埋め、私の頬めがけて手を振りおろしていた。ああ殴られると考えていた。頭の片隅でロボットモードに変換して全身の感覚を切断し麻痺させる。けれど、そのロボットモードに切り替えた意味はなかった。いつまでも頬に衝撃はやってこなかった。私の目の前でその手は止められていたのだ。彼が立ち上がって、その手を止めていたのだからあたり前。そういえば、彼がいたと思い出す。そして、彼に助けてもらえて少し嬉しかったのも事実で、まぁ、私を助けるのは考えれば当然なのだけれども。彼女たちに彼は「消えろ」と冷たく言い放った。怯えて去っていく彼女達の姿を見ても可哀そうとは思わなかった。その時の私には優越感というものが存在していた。
でも、その優越感も数秒で消える。この男は、つくづく女泣かせだと、ふと思い知る。
女ではない、この男が一番の悪なのだ。
「この際、俺と付き合わないか」
「何、この際って」
こんな風に強がっているけれど、何ともないフリを装っていたけれど内心、私の心は酷くドキドキして今にも弾けてしまいそうなぐらいだったのを分かって欲しい。
「今付き合ってる奴いないんだろ」
「まぁ、ね」
「お前と付き合ってたら、少しは女除けにもなるだろうし」
「なによ、それ」
「彼女のフリでもいいから」
ブチ、っとどこかが切れた気がするのは気のせいか?
その瞬間、私の数年にも及ぶ恋情は恨みに変わったような気がする。本当、愛と憎しみは紙一重なのね、と身をもって経験したのだ。
私は「冗談じゃないわよ」と、男のシャープな頬に手のひらを叩きつけた。
そして、何か言う彼を無視して歩き出した。
もう2週間前のことだ。
あれ以降、私は彼を明らかに無視して目も合わさなかった。
※
「悪かった」
次の日の朝、いつもより早く目が冷めしまって私が仕事に向かうと、珍しいことに彼がそこにいて、彼は昇ってくる朝日を背に輝いていた。
眠そうに欠伸をしていた。
それでも、彼は私を見つけた瞬間、欠伸を消し去り、目を大きく開けて歩いてきて、そう言ったのだった。
「本当に悪いって思ってるの」
「ああ」
「私を女よけに利用しないでよ」
「悪かったって」
「今度そんな事言ったら、二度と朝日なんて拝めないからね」
「・・・」
沈黙の後、小さく「分かりました」と彼は呟いた。
それでも、私の中のモヤモヤ、イライラは晴れることもなくて、1度出来てしまった憎しみは、まだ膨れ上がっているような気がした。もしかしたら、私は彼を殺してしまうかもしれないと本気で思ってしまったほどだ。
できれば、殺人犯にはなりたくない。でも、この手でこの美しい男を殺せるならいいかもしれない。結局のところ、私はこの男が好きなのだということだった。それだけが、漠然と分かってしまっていた。ああ、何て悲しい人間なんだろう。
「でも、本気だったのかもしれない」
「何が」
「付き合おうって言ったこと」
「・・・」
「どう思う?」
「・・・どうって」
「ま、俺にとってお前は大切な奴なんだよ」
パン、っと私の憎しみが弾けた。姿かたちも消えて、私の中から消えたようだった。
たった、それだけの言葉に私は何かがこみ上げてきて今にも涙が溢れそうになっていて。
どうしよう、好きだ。
どうしようもなく、私はこいつが好きなのだ。
好きなんだよ、気づけ、バカ!
潤んだ目で見た先、美しい男が窓の向こう、輝く朝日を見て欠伸をしていた。