午前人
お前はちゃんと生きているのか



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今はまだ午前、夜。
辺りが真っ暗で自分の存在さえも分からないような、存在さえも何かに消されてしまうような重たい空気に包まれているこの場所が、この世界が今はどこか優しくも感じられた。ああ、確か昨日は雨が降っていたのだろうか。いや、今も降っているのだろう。遠く聞こえてくる雨の音が耳鳴りのように響いている。妙にじめじめとする空気に息がつまりそうにもなった。だが、何故か今、自分は進まなければいけないと、誰かがずっと、そう、何かが、叫んでいて、どこに行こうとしているのか、自分が今ちゃんと前に進んでいるのか分からないのに、進まなければならなかった。

明かりは一欠けらの光。それを頼りに、異常なほど重たい足を引きずりながら一歩一歩、闇の中に自ら飛び込んでいく。その先に何かがあるのか。ああ、一体自分は何をやっているのか。意味はないものなのだ。どうすることも出来ないというのに。それでも、何がそうさせているのか。何もない世界に、短く乾いた笑いがむなしく暗闇に響いたことだけが今、自分の耳にも体にも響いていった。いつまでもこんな所にいるというわけにも行かないのに、体は一層に重く全く動かなくなってしまったのだ。

その時、重い何かを叩きつける音が響き、真っ暗な外からその雷光が漏れて目が眩む。光が己を突き刺したのは一瞬だった。



「おい」


冬というわけでもないのに寒い寒い、張り詰めた空気を切ったのは、予想通りの冷たい声だった。何故これほどに自分という人間は、こんな時ぐらい優しい言葉さえ気の利いたことばさえも言えず、目の前で涙を流し暗闇の中、人一倍怖がりなくせに蹲る女に何も出来ず温かな手を差し伸べることも出来ないのだろうか。簡単なことである筈なのに。自分はただの無力な人間だという事だ。そして、優しくなど出来ない。女の手を無理やり掴み上げて、現実に引き戻す。この、悲しい現実に。どれほどこの行為が残酷か。自分勝手だということは分かっている。これは女自身の問題なんだろうけれども、もう何もせず待っているだけは嫌だった。それでも、気持ちを伝えることは出来ず冷たい手で触れ、心を突き刺す言葉で現実を見せている。傷つけたくないのに、傷つけて諦めさせて痛いほど思い知らせてやりたい。優しい言葉なんて吐けるはずがない。くだらないプライドがいつも纏わりついて言葉が詰まる。なのに俯き続け涙をこぼして、最後にはこんな無力な自分についてくる女は一体何を思っているのだろうか。



「帰るぞ」


小さく、惨めに冷たい床に丸まって倒れている女の体はびくともしない。まるで、俺の存在が女の中から消えてしまったかのように思えた。頭がズキズキと痛み出した。何をするべきか、何を言うべきなんて知ったことではない。


「このままじゃ、いけないだろ」


本当はずっと前から、お互い分かっていたはずだ。もう、諦めるしかないと。ちゃんと現実を見ていかなければいけないのだ。

それにしても、何故、他の人間のことにまで俺がこれほどに面倒を見てやらないといけないのだろうか。今の俺は保護者のような存在に近いのだろう。今となっては、女が一人になりたい時に、どこに行きひっそり涙を流すのか、しかめっ面になるのは、実は照れ隠しだということ、お酒を飲むと笑い上戸となること。多くを知っている。女を傷つける言葉や行動は、把握済みだ。

そして、今日みたいな日に女がどうするかなんて、俺にはもう簡単な問題だった。分かりきっていた。体の調子が悪そうだという変化にさえもあざとく見抜く。女は実にわかりやすいのだ。いや、それとも俺が見過ぎたのか。どうしようもない。毎日、毎日バカみたいに一緒にい近くにいて女を見ていたのだから。

それで分かりきったような顔をして、女の事を1番よく知っているのは自分だと思ってしまっていたのだ。なのに、それでも、1つ気がつかなかったのは、ただの見落としか?それとも気がつかないふりをしていただけなのか?


まさか、アイツが好きだったなんて



「ごめん」


冷たい冷たい空間に響いた張り詰める空気を裂いた弱弱しい声は俺の声なんかとは比べ物にならないくらい温かな人間の声だと思えた。良かった。生きていたと本気で安心している自分がいて、真っ暗な足元で頬を涙で濡らして情けなく目を赤く腫れ上がらせた女の顔は何故か笑っていた。いや、笑っているのはただの自分にとっての都合の良い解釈かもしれないけれど、何故か、情けない顔をしながら笑っている気がしたのだ。何日ぶりだろうか?

アイツが結婚したのは、風のうわさで聞いた。それを聴いた瞬間は、当然のごとくアイツの幸せそうな顔と周囲の喜んでいる顔が浮かんできた。アイツはそういう輪の中心にいつもいたからだ。輪の中には彼女もいて、当然、アイツを祝福している。心の中にアイツへの恋心を抱いていたなど露知らず。気がつけなかったのだ。普通だったのに。いつから、俺が知らぬところで1人で泣いていたのだろうか。泣いて、泣いて、声を殺して、泣いて、でも泣いた後は、周りに悟られないよう振る舞い、アイツも笑いかける。いつから、そんな事を繰り返していたのだろうか?


「も、大丈夫」


立ち竦む俺に女はゆっくりと立ち上がって、ふらつく足を必死で立たせながら涙をまた拭った。



「大丈夫、だから」


言葉を噛み締めるようにまた女は言った。女は自分自身に言っているのか。仏頂面で何を考えているのか分からないような顔をしている俺に言ったのか。分からないけれど、その言葉は何故か信用できた。ひとつの区切りとして、終止符として発せられた言葉だと。

そういえば、俺が女を現実へと連れ戻しに来る夜は何度あっただろうか。その夜のうち、どれくらいがアイツの為の涙だったのか。全てアイツのせいの涙か。そして、泣きはらした回数はきっと俺が知るよりはるかに多いのだろう。無力感を感じる。もし、もう少し早く女の気持ちに気がついていれば、こんな事にはならなかったかもしれない。無理にアイツの前で笑顔を作らせることもなかったかもしれない。そして、俺を好きにならせる事だってできた。いや、今からでも出来るはずだ。出来ないはずがない。

先ほどまで冷たく冷たく張り詰めていた空気は、穏やかな感じがした。窓を鋭く叩きつけている雨が響く音は恐ろしかったが孤独を忘れられた。


「帰ろうっか」


雨に途切れそうな小さな声は俺なんかよりもずっと前を向いていた気がした。そして、あの惨めな姿が嘘のように真っ直ぐ前を向いて足取りは必死に強く踏みしめて。

だけど、立ち止まったままの俺に何も言わず、冷たい指先に伝わったのは微かな人間の温かさ。久しぶりに感じた女の熱はは生きている証だった。








おまえがずっと好きだった。
否、違う。好きでは足りない。
おまえを愛しているんだ。
結婚してくれないか。

返事はいらない。
お前は俺のものだから。







その時、ぼんやりと遠く聞こえたもの。
酷く厳しい破壊的な音。
それは、空を光らせた。

ああ、全てが変わっていく。




「好きだ」






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返事はいらない。
お前は俺のものだから。




いつか消える雨









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