「死ぬの?」





風が今日に限ってきつくボサボサの髪の毛が余計にボサボサになっていって目を開けられなくて立っていられなくて、ああもう死んでしまおうと最後、今までのいろいろな思い出が走馬灯のように駆け巡ってきた頭の中でさよならを告げて足に力はさほど入れず、今たっているこの地から離れようと飛び立とうとした瞬間に、奇妙な声が、いや別に妙というわけではないし変な声でもない、というか綺麗な声だったと思うが今この状況で自分の置かれている状況からしたら慌てるのも無理はない。


頭の中がフリーズし、そして足がピタリと地に引っ付いてしまったのを感じた。覚悟を決めたのに、こうなると離れるのは難しい。


空耳かもしれないと自分の耳を疑いながらゆっくりと、だけど早くフェンスの向こうに目をやった。その時、吹いた風に体を飛ばされそうになった。が、何とかその場にとどまって後ろを向いた。飛び立とうとした自分は、地に足をつけたまま。全くもって情けないものである。なんだ、これは。そんなものか。




やはり空耳なんかではなくて、そこにいたのは、女子生徒だった。だけど、見えた女の顔は1年間通い続けたこの学校で全くと言っていいほど見たことはなく、日本人だから仕方がないかもしれないが自分より年上と言う顔には見えなくて同じ学年でもないとしたら1年生となる。だが、無表情で何を考えているか分からなくて、だけどきっと何も考えていなさそうな、そう今まさに飛び降りようとしている人間が目の前にいたとしても笑っている女。俺はその女の正体が何故か妙に気になってしまっていた。本当にいま重要な事は、女がここにいるということではない。







「へぇ、君死んじゃうんだぁ」




何故。そう言った女の顔が歪んでいたのが目に酷く焼きつく。ああ、そんなに人が死ぬのが嬉しいのか短気な性格と思いつつも殴ってやりたい衝動に駆られる。だけどフェンスが邪魔をする。どうしてだ。ことごとく邪魔が入る。自分は今死ぬところだったのだ。それなのにこの女が邪魔をした。




「お前、ここ立ち入り禁止なんだけど」
「飛び降りるためなら入ってもいいんだ?」




何とかここから女を立ち去るために早く飛び降りられるようにするために必死で考えたが、やはりそれは無理なことだった。しかも女はニヤリと微笑み、こちらが何ともいえぬ感情を沸き立たせるのだから、非常にやっかいだ。見た目とは反対にこの女の腹の中は腹黒いと、理解する。そして女がここに来るのは今日が初めてではないかもしれない。いつもこの時間帯に立ち入り禁止とされているこの屋上へきているのかもしれないのだ。それならば、今日初めて、しかも死ぬためにやってきた俺の方がここから立ち去るべきなのか。いや、それは譲れない。
それにしても、こんな寒い真冬の時期に屋上に来る人間がいるなんて思いもしなかった。



「君さぁ、何で死ぬわけ?」



いつの間にか女はドアから少しはなれたところ、太陽の日差しが照っているコンクリートの下に腰を下ろしボーっと何も考えていないような目でこちらを見続けていた。つかめない女の存在に苛立ちが募ってくる。





「お前には関係ないだろ」
「まあ、そうなんだけどねー」
「じゃあ、早くここから出てけ」
「やだよー」
「うざい」
「だって、ここから出ても暇なだけだしさー」





「何で死ぬか教えてよ」とまた呟いた女はアハハと笑った。変だと思ったのは間違いなのだろうか。



そうだ、話せば、女はここから出て行くかもしれない。だけど躊躇ってしまうのは人に自分の心の中を話すからであって、その死ぬ理由というのが自分でもバカだと思ってしまうぐらいにくだらない理由だからである。ああ、どうせちっぽけな人間でしょうもない人間なんだ、俺は。





「めんどくさいんだよ」
「何がー?」
「生きてるのが」





ああ、くだらない。今こうして話していること自体もくだらなくて仕方がない。毎日毎日、同じことの繰り返しで何の目標も持っていなくて何のとりえもなくて誰にも必要とされていなくて勉強は全くついていけなくて、食べて学校に来て、くだらない話をして、てっぺんがハゲた先生に八つ当たりされ、うんざりするほど怒られて、ああやっと家に帰れるとホッとし、帰ってみれば親が何かと欠点を口うるさく言ってきて、何十回目かの溜息をついて明日が来るからまた眠って。それが面白いのかと聞かれれば迷わずノーと答えるだろう。そんな毎日の繰り返しで惨めな自分や情けない自分。大嫌いなところ、くだらないことが大きく大きく膨れ上がって纏わりついて目立ってきて本気で疲れる。こんな自分に付き合っていくのが正直酷くしんどいんですけど。





こんなことで死ぬって言うのはくだらないと思う。だけど、この今から逃れるためにはこれしか道はないのだから仕方がない。ニュースを見れば毎日事件が面白いほど湧き上がってくる。今まさに飢餓て死んでいく子供たちがいることや地雷を踏んで家族を失った人たちがいることや明日生きていく術さえなく、望みも薄い人たちがいることも知っている。それに比べたら自分は恵まれすぎているだろう。むしろ無駄にしている。それが、苦しい。情けないけど、そこに生きている人たちのほうが生きていく価値のある人間だと思うのだ。必死で生きている人たちを見てそう思ってしまう。






「死んだらみんな悲しむよ」
「はっ、誰が」
「葬式代お金かかるんだよ」
「そっちかよ」
「君を必要としている人がいるかもよー?」
「いねーよ」
「うーん、でも本当に死んだら悲しむよー?」
「悲しまないっつーの」
「少なくともあたしは悲しいかも」
「何でだよ」
「だって目の前で飛び降りられたらショックでしょ」
「じゃあ、出て行けばいいだろ」
「今、君が飛び降りなかったら、あたしは今日を元気に生きていけるんです」
「聞けよ」






うざいんだよ。何だ、何か文句あるか。死んで何が悪いんだよ。俯いた先に見えたのは自分のスニーカーのつま先と泥のついた解れた汚い靴紐だった。女の顔はきっと始めと同じように笑っているだろう。くだらないと思っているに違いない。




ああ、何だか何もかもが崩れていくような脆さ。そもそも元から自分は何かを積み上げていたのかも定かではないのだが。
ふと、吐いた息が白かったのが何故か不思議で目が離せなかった。





「ね、あたしの口癖は何だと思う?」
「は?」
「あたしの口癖はね「死にたい」だよ」
「それが何だって言うんだよ」
「何かね、死にたいって言ったら疲れた心が少しだけ軽くなるんだよね」





「不思議だねぇ」と女はしみじみとした顔で呟いた。
今にも空に飛んでいきそうなくらいに軽い存在。まぁ、確かに「死にたい」と呟いていたら何となく心が晴れる気がするのは分かる。はぁ、と死ぬにも死ねず俺は女から目をそっと離した。




「でもね、実際は死にたいって言ってても死ねないんだ」

つまりは本気で死にたいとは思っていないというわけで。



「あ、そう」
「そうなんですよ」




バタン、という鈍い制服とコンクリートのかすれる音がして、反射的にその音の方を見れば、その場に女が両手を左右に広げて倒れこんでいた。



何度も言う。
今から死のうとしている俺にとって、この女の存在は全く持って迷惑極まりないのだが。







「出てけ」


脱力しきって、和んでいる女は今にも眠りそうで、さっきまでは思いっきりしゃべっていたくせに今度は俺の言葉にも返事をしないという勝手さに腹立たしい。無神経さにイライラが募ってきた。別に今から死ぬのだからこの女とは一生会わないのだろうし関係ない。今だって特に関係があるというわけではない。

それでも、やはり立ち去ってくれないと心は納得しない。



「おい、出て行けよ」




しーん、と静まり返った屋上に、冬の刺すような冷たい風が身体を抜けていった。手足の先が痛くて頬が痛い。この風で、きっとだらしなく地面に横たわる女は、恥じらいというものを知らない。故に、風によってスカートはめくりあがっていることだろう。そして女は、それを直すことはない。そう思う。別にどうでもいいが。今はこの状況をどうにかしなければいけないということだ。




溜息が出てくる、この場。



「・・・」



何分と刻々と過ぎていく時間は今までに味わったことのないものだった。息が詰まりそうな感覚でもなく、かといって落ち着くものでもない。そわそわする焦燥感。じわじわと、自分が自分でなくなるような、すべてを忘れてしまうのではないかと恐怖を感じた。
抜け出したいなら、足を踏み出せばいいだけだ。
ああ、もう飛び降りてしまえばいい。こんな女ほおって置けばいい。もう少しで死ねる。この場から足を踏み出せば終わる。次に待っているのは天国か地獄か。まあ、どこだっていいさ。ここから出て行けるのなら。




は、と短く息を吐いて目を瞑る。






「あのさ」






ビク、っと指が痙攣し張り詰めていた周りの空気がいっきにはじけた気がした。
またか、と思いつつも振り向いてしまう自分自身が既にこの女のペースにはまってしまっていることに今更ながら気づいてしまった。そして、振り向いた先に見たのは。寝転がったまま空に向かって右手を広げ眩しい太陽の光を遮っている女の姿だった。




「君はどこか行きたい国はある?」
「はぁ?」
「どっか行ってみたい国あるのって聞いてるの」




何故、こんなときにそんな事を聞いてくるのが不思議で仕方がなかった。行ってみたい国?そんなものあるわけない。外国なんて行くだけめんどくさいだけ。オーストラリアには家族といったことはあるが特に面白いというわけではなかった。あんな気難しい親と行ったのが間違いだ。価値を見出すことなど、あの頃の自分には不可能だった。幼過ぎた。記憶など曖昧だ。好き勝手に遊んでいやがる。






「ねーよ、そんなの」
「えー、寂しい人だなぁ」
「・・・」
「じゃあ、あたしはね」
「・・・」
「イギリス行きたい」
「そうかよ」
「行ってみたい」
「あ、そう」
「でもね、1つ深刻な問題があるの」



この女は笑っていた顔を初めて崩した。深刻に何かを悩み考え始めたのである。ああ何だ。何が始まるのか。その様子にどことなく緊張が走る。
そして女が弾かれたように体を起こして、また俺の方を見た。心臓が飛び上がる。



「大変なことにあたし英語全くしゃべれないの!」



アハハ!どうしよ!とバシバシ、そこらへんのオバサンのようコンクリートを叩くテンションの妙に高い声が響き渡っていた。何が深刻な問題だ。どうせ行かない確率の方が高いのだからそんな事まで考える必要はないし、英語なんて片言ぐらいしゃべれればいいと思うが、女はどう見てもバカそうだったのでこれは一生外国には行けない(行ったら危ない)人間だと悟った。




「ちなみに君は英語しゃべれる?」
「・・・むり」
「だよねー、そうだよねー」



溜息をついた女。くるくると顔の表情が変わる女。大丈夫かと聞きたいぐらいだ。
そして、もうここにきてどれほど経っただろう。1時間は有に越しているだろう。そして、それ以上経っている。時間は待ってはくれない。無駄にしたと気づいた。




「じゃあ、一緒にイギリス行こうよ!」

「・・・はぁ!?」
「良いじゃん」
「よくねー意味がわかんねえ」
「イギリスは楽しいよ」
「行ったことあるのかよ」
「ない」


先ほどまで、溜息さえもどこかに呑まれていきそうな、重たい空気だったのに。そこから一変。女の飛んでいきそうになるぐらい軽い空気が自分の体の中にも流れ込んできて頭の中がおかしくなりそうだった。
飛んでいきそうになるぐらい軽い空気の女




「とにかく、あたしは君と行きたい!」
「ふざけんな」
「ふざけてませんよ」





「約束破ったら殴る」とニヤっと笑った女に、何故かこれ以上の反論は無駄と思わされた。何も言わせてはくれないのだろうと。いつの間にか、どこか体も心も軽くなっているような気がするのは、気のせいか気のせいか。



たとえ、女のイギリスに行きたいと言うのが嘘だとしても、その場限りの言葉でも、今はこの女との軽い約束に生かされているのも悪くはないと軽い俺は思えた。























≪あ、チャイムだ≫



聞きなれた授業の始まりなのか終わりなのか、何かを告げる音が学校全体に鳴り響いていった。


その瞬間、死ぬ覚悟だった筈の俺は今や腑抜けとなっていた。
緊張が取れた体に残ったのは空腹だけだった。







≪今のチャイム、5時間目の始まりだよ。あー、あたし、お昼食べてないんだよね≫

見ればいつの間にか起き上がっている女。
女の座っている後ろに、小さな弁当が隠れていた。










≪ よし、このまま、さぼっちゃおう、続行続行。よきよき。快晴快晴。ピクニック日和ですな≫

そして女はこちらに手招きした。
俺は、この境界を掴みながら、ゆっくりと片足を上げ、境界線を来た時と同じように揺らす。






その向こうの、確かな地面へと足をつけた。





境界線0ミリ








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