vision



まだ、薄暗い散歩道で鳴いていたのは猫だった。
流れるような黒い長い髪をした雌猫。
それも、目を凝らさないと分からないほどに、存在は消えかかっていた。
小さなその猫は、背を丸めて足を曲げ体を縮ませ、虚ろな目で何処を見ているのかと思えば湖の中の何か得体の知れないものを狙っているようだった。


息を殺す姿が何とも心細く見える。
圧し掛かってくる天碧を抱え込む哀れな姿。
体を冷たい風が襲う、白く散る雪が、シャワーのように降り注ぎ。
大地を照らす光はまだ闇に呑まれたままだというのに。
小さな猫がこんな薄暗い寒い外になど出るなど断じていいことではない。
という世間一般の一般常識を語ってみる。


何かが落下したような破壊音にハッとする。

猫のような人間だった。
猫のような少女だった。
意味が分からない光景だった。
猫のような人間・・・いや、人間のような猫だろうか。



背を冷たい何かが通っていく。
風が吹きつける。
冷たい何かが押し寄せてくる。
押された体が痙攣したかのようにビクンと動いた。
ここが崖先なら、足を踏み外し死んでいた。


そして、息を呑む。
何の決意か分からないが心に決め込んだ。
そして、地を這うようにゆっくり歩き出す。


猫のまるい背中が大きくなっていく。
気づかれないようにと警戒しながら歩いていた。
静か過ぎるこの世界では音が生まれない。
生まれてはいけない。

音が飛び出そうとしては、空気に飲み込まれていく。
振動しているのは、そこにいる猫の浅い呼吸音と自身の深めの呼吸音。
先には、哀れに伸びきった草の青い匂いが、冬だというのにまだ生き生きとしていた。


ザクザクと草は声にならない悲鳴を上げ倒れていく。
その命の重みが踏みつけた時に伝わってくる。
何とも言えない感覚だった。
この草たちは生きていた。
そして今も生きている。
自然とは、不思議なものだと。
漠然と、そんな事が頭の中に生まれる。

進んでは足が鉛のように動かなくなっていく。体中が重い。
指1本にさえ神経が通っていないような、血が通っていないようなほどに動かなくなる。
自分の体ではないと思えてしまうような冷たい感覚。
だけど足はちゃんと地について、ここに存在している。
踏みつけた草からは滲み出るように青い匂いが漂ってきた。


生きている証。
証明しているような精一杯の叫び。
動かす程にそれらは意味をなくし、当たり前のように倒れる。
冷たい風は気がつけば、もう吹いていなかった。
背を押す冷たいものは存在しない。

息を吐けば出てくるのは、白い息。
何も交じることのない真っ白。
ぼやける焦点を合わせれば真っ黒い猫。
この雪の中に浮かぶ、真っ黒い猫と世界そのものが、一つの出来上がった作品のようだった。


見たこともない光景に、今までの己の目が見て来た光景が全てではないと知る。
くだらない規則も、モラルも、人間も、悲惨な事実も、忘れさせてくれる。
圧倒的な力を秘めた、この一つの絵画がここにあった。

自分がこの場所にいても意味はあるのだろうか。
立ち竦む理由はあるのだろうか。
自分のような黒は、ここは似合わない。
白に侵食されて、間違ったものは消される運命にあるのだ。

目の前にいる猫はビクともしない。
時が止まっているとしか思えなかった。


思ったのはその時までだった。
数秒の出来事。


獲物を見つけたように黒い大きな目が一層大きく見開いていった。
途端、丸い体が石をぶつけられたように跳ねる。
手と足が大きく伸びる。
悲鳴も叫びも息も皆無だった。
その全身から発せられる叫びしかそこにはなかった。

猫の体が深い湖の中へと消えていく。
小さな存在がハッキリと消えていった瞬間だった。

そして己の固まった体が重力を感じなくなったように、軽くなった。
足を動かせと思い出す。
押し寄せてくる冷たい風がまた後押しをする。
この為に、俺と言う人間が、この場に存在したと言われているみたいに、世界は見えた。

迷うことなくただ真っ直ぐ飛び込んだ。
もし、そこが崖なら猫とともに俺は死んでいただろう。



湖が他の者を受け入れまいと押し出そうとする力に無力だと知りつつも、反抗する。
思いのほか、深い。深い奥底で見たのは地上で見たものと同じ黒だった。
真っ黒い髪が揺ら揺らと、命を宿しているように動いている。
掴み取ったのは生々しい人間の柔らかさだった。
猫の瞳は閉じられている。

そして、この場に来てから、初めて耳にしたのは水の音だった。
ザバっという音を立てる水から顔を突き出す。
湖から這い上がった 俺の腕の中には小さな少女が納まっていた。
冷たい水のせいか、全身が小さく、小刻みに揺れている自分をどうにか、落ち着かせようとするが、震えが止まらない。


「お前、死ぬ気か」
体温が感じられなかった。
先ほどまで湖を見つめ続けていた猫はビクともしない。

少女は、猫は、死んでしまったのか。
少女は猫のような存在だった。



「ニャー」



猫が鳴いた。
わが耳を疑う。辺り木の葉のざわめきが届く。
風が 俺の濡れた髪を揺らし、心地よい。

たった一声、鳴いた。命を刻みだす。

「生きてるか?」

黒い目をパチパチさせて周りをキョロキョロさせる少女は「ニャー」とまた小さく鳴くだけだった。
腕に伝わってくるのは、生きているモノにしかない温かみ。
ああ、生きている。


「ニャー」と鳴いた。
そしたら、腕の中で、小さく暴れ纏わりつく髪を払いながら猫は、俺からゆっくり距離を置きどこかへ消えたた。
ぬくもりが腕の中から消える。

呆然としていると、猫は何かを口に加え戻ってきた。


「・・・飴玉か?」
「ニャー」


言葉を知らないのか。
少女といっても7歳ほどだろう。
出てくる言葉は猫の鳴き声と飴の砕ける音、すっぱい匂いだけだった。

まあ、それでもいいかと思った。
少女は猫なんだと思った。
湖を見れば薄気味悪く水面を揺らし笑っている。
あそこに飛び込んだと思うと恐ろしい。


「ニャー」
猫の顔が 俺の腕にぶつかってきた。
丸い目を真っ直ぐに向けて飴玉をアピールさせる。
その差し出された飴玉を受け取ってみる。
それは、水玉模様の紙に包まれた小さな飴だった。

すっぱい匂いがする。
お前にお似合いな飴だと思った。

「くれるのか?」

礼のつもりか。俺に頭をぶつけたり擦りつけたりしている猫の不器用さを感じさせる。
いつもの自分ならそんなややこしいヤツは鬱陶しいと関わらないことにしていた。
だが、今は、そんな気持ちが微塵もない。

「俺はいらない」
飴玉を返す。
猫は思いもよらなかったのかお礼を跳ね返されて丸い目を細めた。
そして、機嫌が悪くなったように、毛を逆立てている猫のような気がした。
ほんとは猫ではないのに、そんな気がした。

丸い縮まった震える体を見て 俺は喉を鳴らして笑う。

「お前、猫みたいだな」
「ニャア」
少女は猫のように目を細めて小さく笑って鳴いた。
猫の機嫌は変わりやすい。
そんな事を思った。


「 おーい!」


遠く、聞こえてきたのは友人の声だった。
今まで夢の中にいたみたいにハッとする。
これまで対峙していた世界に目を向ける。
そこに猫はいなかった。

「 おーい!」

ヒタヒタと頬をつたう水を振り払いながら 友人のほうに振り返った。
走ってくる友人の顔は、怒っているような顔だった。

「 こんなところで何してたんだよ!」
「何って、散歩」
「こんな朝早くから?」

そういえば、誰かに何も言わず、突然いなくなったのは 自分だった。

「みんな心配してるんだぞ」

学生のころから付き合いのある友人たち数人と共に自然を満喫しにきていたのだ。
そして寝床から、コテージからいなくなった俺。

「それにしても、・・・何でそんなにずぶ濡れに・・・」
「・・・湖に、落ちた猫を助けたんだ」

必然的に湖の方に振り返った。
湖は未だ不気味にこちらを見て笑っていた。

「猫なんていないけど」
「いや、いたんだ」

そこに猫はいなかった。
けれど、それが当たり前なような気がした。
あれが幻だったとしても可笑しくはないのだ。

「おいおい、疲れてるのかよ」
日頃、発散できない仕事の疲れを癒すために、ここに来てんのに疲れてどうすんだよ。と呆れた友人の声が聞こえた。

青い草の中に、存在を証明しているかのように、残されていたのは小さな猫の足跡だった。
夢から覚めただけだ。
そこから目を逸らし、滴り落ちる水に嫌気がさす。

「ああ、そうだな」





数日後、 俺のポケットには、

水玉模様の紙に包まれた小さな飴玉が入っていた。





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