月季紅 | ナノ




 華美な丞相の衣装を脱ぎ、市井に交じる染めの薄い衣装を身にまとう。そしてある程度の銅銭を懐に入れれば準備は完璧だ。
 人目を避け、回廊は通らずに丞相府を移動する。鼻唄混じりに目当ての部屋の中を覗き込めば……そこに鼎の姿が見えなかった。

「いない……のか?」

 今日は文若から休暇が与えられている事は確認済みだ。だからこそこうしてやってきているのに、彼女の姿が見えない。

「っ!」

 もっとよく中を見てみようと角度を変えると……床の上に投げ出されている二本の足が見えた。
 孟徳は反射的に留め具のある所を殴りつけ、無理やりに窓をこじ開けて中に入る。床に倒れていた鼎に駆け寄った。
 部屋の中は竹簡や紙片、木片などが散乱している。まさか、と嫌な汗を背中に感じながら、鼎の肩を掴んだ。

「鼎ちゃ……ん?」

 しゃつ、と鼎が言っていた白い麻の衣装越しに、確かな温かさを感じる。
 墨で線の描かれた紙に突っ伏している顔からはすうすうと穏やかな寝息が聞こえ、その背中は規則的に上下していた。 

「ねえ? …………寝てるだけ?」
「…………」

 当然ながら、答はない。
 文若にこき使われて疲れているだろうから、気分転換に遊びに誘おうとしたのだが……疲れて寝ているなら起こすのは忍びない。
 しかし、この散らかりようはもしやまた新しい何かを作っている最中だったのだろうか。連日の仕事に加え、何か開発しようと作業をしていて……力尽きた。多分このような顛末なのだろう。

「休みの日くらい、休めばいいのに」

 意図せずして眠りに落ちてしまったのか……よく物を見たい時に使うという薄い玻璃の板を鼻梁を跨いで二枚繋げた道具を付けたままだ。

「………………」

 孟徳は鼎の寝顔に触れた。
 遠い未来から来た、不思議な少女。鼎が語る言葉も作る道具も、真新しい物ばかりで、彼女に対する興味は尽きない。
 専門になる予定は医学だったんだけど……と言いながらも、治水や農耕といった様々な分野の知識を持ち、助言を行い一定以上の成果を出しているのだから頭が上がらない。
 彼女が来てからゆっくりとだが、着実に百姓が豊かになっていくのがわかる。そして、それだけでなく軍事の才能まであるのだから、他国も喉から手が出るほど欲しい存在に違いない……まさしく彼女は鼎だ。

「また、傷を作っちゃって……」

 指先に新しい治療の跡を見つけて、孟徳は眉を顰めた。
 孟徳の知る女という生き物は、自分を美しく見せるために生きている。それでいいと孟徳も思うし、鼎にもそうしてやりたいと思っている。大事に囲って、慈しんで、話を聞いて、戯れて……笑っていてくれればどれほど嬉しいだろうか。
 一度誘ってみた事があるのだが、素気なく断られたのでそれ以来口にはしてはいない。だが、ずっと考えていた。どうすればこの子を手に入れられるかを、ずっと……。

「ん……ぅ?」
「起きちゃった?」

 孟徳の不穏な思考が伝わったのか、鼎は身動ぎ、目蓋を開いた。

「もー……とく?」
「うん」
「おはよ……」
「おはよう、鼎ちゃん」

 自分は随分と簡単な事で幸せを感じるようになったと孟徳は思う。顔が緩むのを自覚しながら挨拶を返す。夢うつつなはずの鼎が文若のように眉間に皺を寄せながらもごもごと話始めた。

「塩田が……先か冶金が先か、どっちがいい?」
「え?」
「どっちを先して手付けたらいいかな」
「ああ、そうだね……」

 寝ても覚めても、彼女の頭の中はそういう考えしかないのか。着飾りたいだとか、美味な物を食べたいと要求されたことは一度も無い。変わりに実験に使うからと木材や金属、紙や墨といった色気無いものはよくねだられる。
 孟徳は暫く考えると、冶金を選んだ。

「冶金、かな。ねぇ鼎ちゃん」

 寝ぼけていて無防備な今なら忌憚なく答えるかな、と孟徳はかねての疑問をぶつけた。鼎は孟徳の元に来てから様々なものを作ったが、どうしても作らないものがあった。頑なに……武器には手を触れないのだ。

「君はさ、兵器は作ってくれないよね」
「兵器は、いまんとこ……遠慮したい」
「どうして? 人を殺す道具を作るのはやっぱり嫌なの?」
「……ちがう、よー」

 鼎とて、火薬を生成して俺TUEEEEE! をしようと思った事は正直ある。でも、それ以上に、この知識を活かしたいことがあるのだ。

「好かれたら良いよなーって、思って」
「好かれたら?」
「孟徳のイメージアップ、草の根精神……」

 相当疲れているのか、彼女の言葉は余り要領を得ないが、つまりは鼎のやることなすこと孟徳の為に、ということだ。
 確かに、彼女が作った様々な道具は、孟徳や丞相府を通して頒布させている。内々の人間は誰の手によるものか知っているが、鼎はどれも自分の手柄にしたがらない。
 孟徳に多くの物を捧げながら、鼎は見返りを何も求めてこない。こうして半ば気絶するような眠りになるほど働いているのに、地位も名誉も名声も望まないのが孟徳には不思議でならない。

「どうして俺にそこまでしてくれるの?」

 孟徳の問い掛けに、寝ぼけている鼎はふにゃ、と笑った。

「曹孟徳が好きだからだよ」
「……そうだね」

 彼女の言葉に偽りは無かった……。
 確かに嘘ではない、けれどこれは孟徳の欲した『好き』ではないのだ。
 曹孟徳は彼女の語る曹操に嫉妬している。己の知らない孟徳を知る彼女が作り上げた曹孟徳を、まだ孟徳は壊せずにいた。

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