燃え尽き炎帝と傾世皇后
珂燿の探し人は人の訪れが殆ど無い部屋で、静かに巻物をめくっていた。正装を適当に脱ぎ捨て、灯火の明かりに照らされながら……。覇気に溢れ、威厳を湛え、玉座に座る王然とした時と比べてあまりにも寛いでいる姿を見た珂燿は、嘆息混じりに声をかけた。
「このような所にいらしたのですか、紅炎様」
「珂燿か……」
「珂燿か、ではありませんよ。近侍も可哀相に……右左両将軍に睨まれて涙目でしたよ」
「黒彪と青龍がいるなら、俺が行かずとも良いな」
「またそのような事をおっしゃって……」
正装を片付けながら、仕様が無い方だと珂燿は苦笑いするしかなかった。皇帝……いや、世界の王というには不釣り合いなそのだらけきった紅炎に。
「戦が無くなったとはいえ、唯一の王がそれではいつか内乱を起こされてしまいますよ?」
珂燿は静かに歩み寄ると、巻物を持つ紅炎の手を押さえる。文字から目を離した紅炎に、珂燿は諫めるように言った。
そう世界は統一された。国境は無くなり一つの国になった。征西軍総督としていきいきとしていた彼を見ることはもう……無いのだ。
そして国としての基盤が整った今、彼は全てが終わったとでもいうように、弦が緩んだ弓の様になってしまった。王として最低限のことはやっているのだが、楽隠居したようにのらりくらりと仕事を周りに押し付けて、好きなように過ごしている。
「…………………」
「……あの、紅炎様」
「?」
珂燿の輪郭を縁取るように撫でながら、紅炎は黙ったままで、すべてを知っているかのような不敵な笑みを浮かべている。
「よもや、わざと内乱を起こさせようというわけではございませんよ、ね?」
「さあ……お前はどう思う?」
穏やかな表情……だと思うのに、何故こうも産毛が逆立つような悪寒がするのだろうか。
「に、逃げてー。纂奪者反逆者の皆さん逃げてー」
「夫の敵を庇うとはけしからん妻だな」
「世界の平和を祈ってるだけです、私は!」
珂燿の狼狽える様を、さも愉快とだというように紅炎は咽の奥で笑った。
紅炎は自身の手を押さえていた珂燿の手を掴み、引き寄せる。そのまま抱きしめるはずが、珂燿は勢い余って紅炎の胸板に鼻をぶつけてしまった。彼女は紅くなった鼻をさすりながら、恨みがましく紅炎を見上げた。しかし、そんな目線など紅炎にとっては痛くも痒くも無い。どちらかといえばむしろ……煽られる。
「ならば俺の退屈凌ぎのために話をしろ」
「王の責務を退屈と言うのは紅炎様以外にいないでしょうねぇ」
「異なる世界の話が良い」
「聞いていませんね。私の話」
「聞いているとも。碑文に記されていないお前の話は興味深い」
「まったく……このように他の世界の話をしていたら、いつか我が君はそちらの世界にまで手を伸ばしてしまいそうですね」
「……………………」
珂燿の諦念混じりの言葉に、紅炎は虚を突かれたように目をまるくした。考え込むようにして顎髭に手をあてて暫く……彼はしみじみと言い放った。
「その手があったな」
「え……?」
いつの間にか、紅炎は炎帝の顔に変わっていた。全てを蹂躙し、征服する炎の如き王の顔。閨の中で見せる嗜虐的な笑みへと。
失言をしてしまった珂燿はこれでもかと冷や汗をかきながら首を左右に振りまくった。
「いやいやいやいや無理ですよ紅炎様。無理です!」
「魔導師連中を集めさせろ」
「待って、駄目ですって! 世界の為に燃え尽きたままでいてくださいませ!」
「夫の生き甲斐を奪おうとするのか? 不届きな妻だな」
「ええぇぇぇ……」
ごめんなさい、眠れる獅子を起こしてごめんなさい! と珂燿は三千世界の人々にひたすら謝るしかなかった。
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