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おん しゃれい しゃれい じゅんてい そわか
幾重にも重なった電線の後方に凡庸な家々が連なっており そのさらに奥には沈みかけた太陽が空をあかく染めあげている。それを一枚の画にするようにして無骨な窓枠がその部屋の西側の壁にはめてあった。網戸をひいた窓からおだやかな風が入り込み、夕焼けで赤く色づいたカーテンをふわりとゆらした。
おん しゃれい しゃれい じゅんてい そわか
――秋、東京郊外にて。
おん しゃれい しゃれい じゅんてい そわか
すこし低めの しかし底を、重さを感じさせない軽やかな声が部屋に響く。
この音の羅列をきくのはこれで何度目だろうかと、男は落ちそうになる瞼に力をいれながら考えた。
そのことばの意味するところは男にはちっとも理解できなかったが いっぱつで暗唱できるくらいには聞かされている。
たしかにあのように美しく発音するのは無理であろうが、ことばを紡ぐだけなら自分にだってできる。
すでに男はこの状況を後悔しはじめていた。自分の右ななめ前にて ぴしりと正座をしている己の妻の様子をうかがう。きっと飽きてるにちがいないとふんだ男の予想をうらぎって、妻は熱心な様子で、部屋に途切れることなくひびく音をありがたそうに頂戴しているようだった。
こんなものもう止めろ。しびれを切らした男が声をあげようと決心したそのとき 音がぴたりと止んだ。
「おつかれさまでした。楽にしてください」
妻と対面するように座った青年が 意味不明な音の羅列とは違う音を発した。先ほどまで響かせていた声色とは少し違うおもむきがあったが やはり心地のよい発音をする。男は一瞬そのことばを理解できなかったが、妻が姿勢を楽にしたのをみて 青年が日本の現代語を発したのだと理解した。
「お気を悪くされたら申し訳ないんですが 本当に効果はあるんでしょうか」
「ちょっとあなた」
「だって、これで三回目だぞ。金もはらってるんだから、そこらへん、はっきりしとかないと」
訝しげにいう男に、妻が責めるように声をあげるが 青年はそういわれるのをあらかじめ予測していたかのように穏やかに微笑んだ。男はことばを続けようとしたが青年の微笑みがあまりにも人畜無害な装いをしていて良心を刺激されたので つい口をつぐんでしまった。
「安心なさってください。おそくても ひと月後には結果がわかるでしょう。初回時に申しあげたとおりもし結果が芳しくないようでしたら いままで頂いたお金は全額お返しいたします」
そこまでいわれたら文句のつけようもない。男はそれ以上余計なことはなにもいわないで 承知したと頷いた。
妻と和やかにことばを交わしだす青年。悪い人間にはみえない。
しかし男はどうにも信じ切れなかった。陰陽師という存在が。陰陽師というものがほんとうにいて ほんとうにチカラをもっていたとしても 青年=陰陽師という方程式がいまいち男の頭にできあがらないのだ。
男は青年をながめ、分析した。
――目も髪も真っ黒で 古風を好む男からしたらそのあたり実に日本的でなかなか好ましい。夕焼けの赤をあびた顔も涼やかな和風顔だ。彼の陰陽師像にもぴたりと当てはまる。
――髪は長く、背中までのびている。この点は男からするとけしからんの一言だが「陰陽師の髪には魔力がつまっている」という眉唾ものの話を耳にしたことがあった。ならば 一男子が長髪なのも仕方ないし これも陰陽師像に重なる。
服装はどうだろうか。
――黒のジャケットと同色のジーンズ、そして白いインナー。特筆する点はないが 青年の長身によく似合っている。これも男からすると好ましくはあれど厭う気にはなれなかったが どうも陰陽師のイメージとはちがう。
陰陽師といったら浴衣だとかではない 神社の祭りのようなものでまれにみるあの和服を――貧相な語彙で説明つけようとして、男は中断した。この二十一世紀でそのような格好で街をうろうろしていたらかなり目立つから 現代の陰陽師だってそのような格好で歩き回ったりはしないのだろうと 結論付けたからだ。
だいたい、目立つ格好でこの部屋に入られてもこまる。近所のおばさんの噂ずきを舐めてはいけない。結婚六年目でまだ子どもができないというのは決して悪いことではないと男は感じていたが、周りは必ずしもそうではない。変な噂をたてられてはこまる。だから、陰陽師が家に祈祷しにきて 不妊治療みたいなことをやっていると知られるのは男は避けたかった。
ふと、キンモクセイの香りが男の鼻孔に届いた。男の好きな匂いだった。秋になるとキンモクセイの匂いが街中でかおるようになって それに気づくたびに秋の到来をしみじみと感じることができる。
キンモクセイの匂いの出どころは外ではなく まさに男の目の前にいる青年だった。
――今どきの陰陽師は香水をつけるのだろうか。ずいぶんと洒落ている。だがムスクの香りだとかローズの香りだとか、そんなものよりもキンモクセイのほうがずっと日本的な気はする。
男はそこで分析をかんぜんにやめた。ばかばかしくなったのもあったが青年がお暇しようとしていたからだ。
立ち上がって、横に並ぶと 青年の背の高さを嫌というほど痛感させられた。それでどうにか身長さをごまかせるというわけではなかったが男は一歩、青年からはなれた。
ぴしりと伸びた後姿は日なたで生きるもののそれであった。まっとうな道を歩んでいて卑しいことなどしていないと主張している。
うむ。男はやはり背中で語るものだ。
まだ三十代でありながら頭の中は侍のような男は口の中でつぶやいて さいごのさいごで青年を信用することにした。
「九さん。こどもができて生まれたら 三人でご挨拶にうかがいます」
「あら あなたったら」
妻が「今さら信用しはじめたの」とすこし冷めた目で男をみたが 男も青年もたいして気にはしていなかった。青年も自らの職業が胡散臭いものであり周囲から懐疑的な目で見られることは慣れている、どころか疑われて当たり前だと思っているようにも見える。
「はい。おまちしています」
青年はその細面に笑みを浮かべるとキンモクセイの香りをすこし残して、優雅にもかんじるほどゆっくりとした自然な動作で その家をでた。
おん しゃれい しゃれい じゅんてい そわか
男はあの意味のわからないことばの羅列を秋の香りとともに再度きいた気がした。
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