洒落にならねえ | ナノ



彼女、ジズという人間は平素より馬鹿げた事を好む女だった。シンドリアからはるか極東の小さな島国の富豪の奴隷であった彼女はあろう事か奴隷仲間との賭けに負け、奴隷であるが故に本来は身を呈して守らなければならない自身の主人をたこ殴りにし、取り返しがつかない事をやってしまったと気付いたからと商船に忍び込みその島国を逃げ出したのだった。そして、それはあろう事に我が国、シンドリアへ向かう商船だったのである。長い船旅の間に事ある毎に食物が減っていることはあったがそれは気のせいだろうと呑気な考えをしていた船員達は、市場に卸す商品に紛れて膝を抱えてぐうすかと眠る彼女を見つけた時、それはそれはこの世の物とは思えない程の絶叫を上げた。日々仕事に追われ疲れが溜まりきっていた体を気分転換にと市場に顔を出していた私が、びくりと肩を跳ね上げる程にとてつもない絶叫であった。
馬鹿主人を殴りに殴って逃げてきた。この船に積まれていた果物はとても美味しかった。慌てて絶叫の元であった商船に駆けつけ乗り込み、船員に剣を向けられ両手をあげる彼女を見つけた瞬間彼女が口にした言い訳は、命乞いと言うには程遠いものであった。今起きたとばかりに眠たげな表情を浮かべながらも微かに罪悪感を滲ませるように肩を竦めた彼女の姿を、私はよく覚えている。いや、忘れられる筈もない。


「ジャーファル様、やってしまいました」


肩を竦めた彼女に、ふざけるな!と思い切り拳骨を喰らわせてから早三年。バルバットでの騒動から、アラジン達を連れ帰ってから早半年。そして、シンドバッドがアラジン達に痩せろと言いはなってから、まだ三日。私の拳骨が余程痛かったのか私に対してだけはえらく下手に出る彼女が、恐る恐るというように私の前に現れた。廊下の柱から顔を覗かせる彼女は、いつものへらへらとした笑みとは正反対の真顔である。


「……聞きたくはありませんが、仕方ない。聞きましょう。言いなさい」

「は、はい……、そのですね、」


書物を抱き抱える私の前にそろそろと歩み出て、ジズは一度辺りを見回す。余程の事をしでかしたのだろうか。どこか青ざめた顔でそのようなことをするものだから、聞こうとしている此方まで血の気が引いてしまう。早く言え、心臓に悪い。


「ジズ、もたもたしていないで早く言いなさい。私の気は長くないんですから」

「へ、へいっ、言います!言います!」

「何をしでかしたんですか?まさかあなた何か壊したり……」

「いえっ!そのようなこと!しましたけど!」

「したんですか!何処だ!何を壊した!言え!」

「ひい!でもでもでも違うんですジャーファル様!私がやってしまったのはそれじゃ、いやそれもなんですけど!」


怒りのあまり思わず抱えていた書物をぼろぼろと廊下に落とせば、彼女は慌ててへこへこと頭を下げながら私の足下に転がったそれらを拾い上げていく。しかし彼女も動揺しているらしく、巻物状のそれを指先で弾いては私の足下から遠ざけていた。あああ、と声を漏らした彼女はいつも見せる馬鹿げた笑みを何処か遠くに捨ててきてしまったかのように、まるで別人だった。
何をしたんだ。何をしでかしたんだ。ジズが此処まで慌てた姿を、私は一度しか見たことがない。確かその一度は、私とシンドバッドと三人で外交に向かい、外交先の大臣達が用意した酒の席でシンドバッドと二人して酒瓶をひっくり返し、大臣を頭から酒浸しにした時だ。今思い出しても血の気が引く。
おい、お前は本当に何をしでかしたんだ。


「……ジズ、怒らないから言いなさい」

「おおおお怒ってますよ……!絶対怒ってますよジャーファル様……!」

「ジズ、私はあなたの上司なのですよ?さあ、言いなさい。何をしでかした。言いなさい!」

「言います言います……!うえあっ、来た、ジャーファル様、来ちゃいました……!」


ばっ、と握り拳を振り上げようとした私にジズは弾かれるように頭を抱えて身を低くしたが、彼女がしでかした何かを口にするより早く、彼女は鼻をすん、と鳴らし、あわあわと辺りを見回した。何が来たんだ。粗相をしてしまった我が国の大切な食客か。もしそうなら、彼女の頭をもぎ取る勢いで力付くで謝らせよう。大臣を酒浸しにした時も、私はそれで乗り切った。
しかし、彼女が中腰の妙な姿勢で固まった視線の先にいたのは、私が思いもしなかった人物であった。彼女と同じく暗黒大陸出身の彼は、これまた彼女と同じくよくきく鼻で私より先に此方に気付いていたらしく、表情筋をぴくりとも動かさず此方に向かってくる。
そろそろ、そろり。足音をたてずに私の後ろにそうっと隠れたジズを静かに睨みつける。書物をしっかり抱き抱えている点は褒めてやりたいが、おい、まさかお前、マスルールにやらかしたのか。


「マスルール……モルジアナとの鍛錬は終わったんですか?」

「っす。ジャーファルさんは……」

「ああ、私はこの書物を戻しに行こうとしていた所なんですが……」


相変わらず無表情な彼から視線を外し、後ろにいた彼女を振り返る。いつの間にか真顔を貼り付け姿勢を正していた彼女は、やはり私の部下である。きっと彼女の心中はとんでもなく荒れに荒れているのだろうが、密偵ばかりさせられているせいか、とても今の今まで情けない声を上げながらころころと転がる書物を追いかけていた人物とは思えない。


「……ジズがちょうど通りかかったので、ジズに任せようかと」

「……そうっすか」


ジズを庇うつもりではないが、あの慌てようは尋常ではなかった。マスルールから怒りやら何やらの感情は全くと言って良いほど読みとれないが、何せあの慌てようである。きっと、無表情で目の前に佇む彼から逃れたい程のことをしたのだろう。それならば、彼女がしでかしてしまった事はまた折りを見て聞くことにしようではないか。そう思い、私はジズの肩を叩きさっさと行けと促した。彼女の視線が何でもない風に私を見たが、その視線が私に感謝の念を伝えていたことは考えずとも分かった。
どうやら怒ってはいないらしい彼である。いつもならこのまま彼は此処に残り、私と二、三言会話を交わし、何処かへふらりと消えていくのが決まり事のようなものであった。書物の片付けや書類の整理等、少なくとも文官がするような作業を好まない彼は、決して仲の悪くないジズであろうとそんな彼女の後を追おうとはしないはずだった。


「あ、ジズさん」

「……はい」

「俺も行きます」


それが一体どうした、何があった。呼び止められてゆっくり振り返ったジズは少し不自然な間を空けて返事をし、そして彼の次の言葉に一瞬目を見開いたが、すぐさまいつもの馬鹿げたへらへらとした笑みを浮かべ、何事も無かったかのようにありがとうと言って彼を見上げた。
じゃあ、と頭を下げてジズの元に大股で歩み寄った彼の背中を、私はぼんやりと見つめる。やってしまいました、とジズは言っていた。私はてっきり、マスルールを怒らせるようなとんでもない何かをしたのでは、と思っていた。だが、今のこの状況は何だ。一体何なんだ。何故彼は、ジズの半歩後ろをひょこひょこと付いて歩いているんだ。


「……誰か、誰か私に説明を……!」


おいジズ、お前は本当に何をしでかしたんだ。







「……………………」

「……………………」


まさか常人では到底理解出来ないこのような光景を目前にしながら、暇だからと私の研究の邪魔をしに来たピスティとシャルルカンの髪を無言で引っ張ることになるなんて、私は一度だって考えたことが無かった。
一体何がどうなってこの様な事になってしまったのだろうか。研究に必要だからと机に広げていた書物にインクを零そうとしていた二人から手を離し、本棚の向こうで書物の整理をする背中を見つめ、それからそんな背中をまじまじと見下ろし後ろにぴったりくっついて回る大きな背中を見つめた。今や私の邪魔をする事など頭から吹っ飛んでいるであろうピスティとシャルルカンの顔は、散歩中に鳥に襲われたくらいの驚愕ものである。私もである。


「………………あの、ま、マスルール、さん」

「何すか」


そそそ、と足音も立てず別の本棚に書物を戻して行きながら、私達の視線の先の彼女、ジズが振り返りもせずに背後に立つ彼、マスルールに声をかけた。いつも何処か飄々とした態度で私達に接する彼女からは、余裕のよの字も感じられない。言うなれば彼女が唯一低い姿勢でへこへこと頭を下げて付き従うジャーファルさんの怒気を察知した時の彼女である。
一体何があったのか。そもそもあのマスルールが何故彼の苦手である書物が壁一面に並ぶ図書館にいるのか、そして普段から特別仲が良いとは思えない彼女にぴったりとくっついて行っているのか。彼等二人が現れる前の姿勢のまま動けないでいるピスティとシャルルカンが妙な汗を流しているのを横目に、私はごくりと唾を飲む。そう言えば、ジズが昨日会いに来なかったとシャルルカンがボヤいていた気がする。


「いや、何って、いや、見てるだけって暇じゃないかなー……と」

「………………」

「ほ、ほら、マスルール、こういう場所好きじゃないし、無理に居なくても……」


ジズの言葉をいつもの無表情で受け止めながら、マスルールは一度、こういう場所、と言いながらジズが指さした本棚を見る。この国に来たばかりの頃にその整頓の仕方は何だとジャーファルさんにこっぴどく叱られた事が身に染みているのか、彼女が本棚に戻した書物はぴっしりと真っ直ぐその身を正している。
少しの間を置いて、本棚からジズへとマスルールは視線を戻した。心なしか、彼の視線は優しい気がする。


「…………まあ、確かに此処は好きじゃない」

「だ、だよね!それなら無理して居なくても、ぜんっぜん、」

「けど、」


ジズさんが働いてるところ見るのは、嫌いじゃないです。
口元のピアスを指先で撫でながら相も変わらず無表情でそうのたもうたのは、一体どこの誰だろう。シンドリアのマスルール?いやそんな馬鹿な。
大きな衝撃を受けてあんぐりと口を開けて目を見開いたピスティとシャルルカンを横目に、私は一人狼狽える。まさかの言葉を発された当の本人は、流石ジャーファルさんの直属の部下とでも言うところか。私達のようにあからさまに態度に出さないあたり、密偵の任務でなかなかの修羅場を乗り越えてきたのだろう。しかしながら、私には彼女の周りのルフの暴れん坊っ振りが見えてしまうのである。それはもうマスルールの周りのルフを全て蹴散らしてしまう勢いだ。


「ぐ、ふ、」

「……ジズさん?」

「いや、ごめん、何でもない。うん、そんなに好きなら私ささっと働いちゃう、うん」


彼女の口から押さえきれない声が出て、内心どれほどの焦りや混乱があるのか、ルフの動きも相まって手に取るように分かってしまった。
思わず口元を押さえたジズだったが、直ぐにへらっといつもの笑みを浮かべ、言葉通りささっと手早く書物を元あった場所へと戻してしまった。そんな彼女の背中をじっと見下ろすマスルールに、私の周りのルフが騒がしくなるのは仕方のないことだろう。


「じゃ、じゃあ、もう終わったし、私はそろそろ……」

「……ジズさん、これから暇ですか」

「へ、へいっ!へいっ!?」

「暇なんっすね」


ぶっ、と笑いそうになったピスティの口を慌てて押さえ、書物を広げていた机の下に咄嗟に隠れる。鼻の良い彼等のことだ、とうに私達の存在には気付いているだろうが、それでも今は視界に入ってはならない気がした。


「……暇だって言ったら、どうするの?」


本棚に並ぶ書物を指で撫でながらそう問いかけるジズを机と椅子の陰から見つめ、未だあんぐりと口を開けていたシャルルカンを机の下に引っ張り込む。三人で肩を並べてマスルールの返答に耳を澄ましているこの姿、誰にも見られたくない。


「暇なら、俺と散歩でもしませんか」


その、森の中でも、どうですか。
控え目に訊いておきながら自分の得意とする領域に誘うとは、なんという男だろう。ふい、と視線を外しながら言っておいて、最後の最後に視線を戻すとは、なんという男だろう。


「……じゃ、ジャーファル様に、お仕事無いか訊いてきます……」


そして、あのジズに恐る恐る言葉を選ばせるなんて、本当になんという男だろう。
嫌な事は嫌だ。楽しそうなことには全力で。好きな物はとことん。はっきりとした態度で物事に接する彼女があからさまに不自然な間を空けて、良いとも嫌だともとれない言葉を返したことに、両隣の二人がわなわなと震えながら椅子にしがみつく。もしや彼女は、彼にとんでもない弱味でも握られてしまったのだろうか。そう思うほか無い程の彼女の態度に、私はその場にぺたりと腰をついた。


「じゃあ、ジャーファルさんの所行きましょう」

「そ、だね、うん……行こう、うん」


へら。ジズが笑い、部屋を出ていく。ゆっくりとした足取りを彼は確認し、その後を彼もまたゆっくりとした足取りで追いかけた。
彼がちらりと最後に私達に視線を向けたのは、気付いていない振りをしておこう。
遠ざかっていく足音を聞きながら、私は胸を撫で下ろす。すう、と大きく息を吸い込んで両隣の二人を見れば、ばちりと視線がかち合った。


「ジズのやつ、何しでかしたんだ!?」

「ジズってば、何しちゃったの!?」

「ジズ、何しちゃったんだろう!?」


がったがったと椅子を揺らしながら、私達は同時に叫ぶ。
この日ジズは仕事が終わらないと言って、ジャーファルさんの執務室から夜が更けるまで顔を出さなかった。









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