黎明の月 | ナノ
「へえ、海で泳いだことないわりに筋が良いね!」
「そ、そうですか…?」
乱太郎達に紹介された兵庫水軍の男の人達の中で一番若いだろう彼、網問さんとやらが私に笑いかける度に背中にちくちくとした痛い視線が刺さるのは気のせいではないだろう。しかし、その視線がやたらと多いものだから、私にはどの視線がどんな意味を持つのかなんて分からなかった。
「…おい八左ヱ門、あの男は要注意だよな?」
「お、三郎、奇遇だな。俺もそう思ってたところだ」
「なあ、勘右衛門、良いのか?」
「ちょ、ちょっと兵助、そんなこと訊かない方が…」
ただ、視線の持ち主達が五年生だということは確かだけれど。
「…はあ」
そして、勘ちゃんの機嫌も良くはないということも。私自身、勘ちゃんのそばに一番いたい、ということも。
「千影ちゃん、息継ぎの時はもっとこう…」
「こ、こう、ですか?」
「あ、そうそうそんな感じ!やっぱり君筋が良いねー」
水に浮かぶばかりで泳ごうとせず、波に流されそうになるしんべヱの手を掴んでやりながら、俺は日差しに目が眩んだふりをして千影に触れる男、網問さんとやらを見た。
乱太郎達が兵庫水軍の第三協栄丸さんが連れてきた重さんと義丸さんに遠泳の仕方を教わっているのは良い。いや、当初の予定はそうだったらしいから、そうでなくては困る。しかし、何故千影まで。
「尾浜先輩、どうしたんですか?何だか怖い顔してますよー?」
「え、あ、ご、ごめん、太陽が眩しくてさ」
しんべヱにそう言われ、俺は慌てて視線を他に移した。浜辺で乱太郎達を見やる第三協栄丸さんとは正反対に、その隣で談笑をする三郎達は明らかに俺と同じように千影と網問さんを見ていて、思わず苦笑してしまう。
ああ、駄目だ。このまま海の中に突っ立っていても辛いだけかもしれない。そう思った俺は、しんべヱの柔らかな手を軽く引きながら波打ち際へと歩きだした。
「しんべヱ、もう上がろう」
「はーい」
漸くしんべヱでも足のつく位置まで来て、しんべヱはへらりと笑いながら俺の手を繋いだまま自身の足で歩き出す。その歩幅はやけに狭くて、千影と歩くような調子で歩こうとした俺はその違いに足を滑らせそうになった。
ざり、と濡れた砂を踏む足音に気付いた第三協栄丸さんと三郎達が顔を上げ、しんべヱが相変わらず狭い歩幅で走り出す。しかし、何故だか走る気になれなかった俺は解けるように手を離し、しんべヱの背を見送った。しんべヱは、俺の沈んだ気持ちには気付かない。
「勘右衛門、大丈夫か?」
「…大丈夫って、何が?」
第三協栄丸さんと三郎の間に座り込んだしんべヱを見やりながら、俺は問いかけてきたはっちゃんの隣に腰を下ろした。はっちゃんの逆隣に座っていた兵助が、微かに眉を動かす。誤魔化すな、とその顔が言っている。
「何がって、お前なあ、」
「ねえ、はっちゃん」
大丈夫に、見える?
自身から滴った水で湿り気を帯びた砂を見やりながら、俺はそばにあった上着と袴をとる。そして、べたつく体も気にせず俺はそれに袖を通し、顔を上げる。そこには、楽しげに水しぶきを上げる乱太郎達と、少し離れた場所で小さく笑う千影と網問さんがいた。じくり、胸が痛む。
「…嫌なら嫌って言ってこいよ」
「……だって、さ」
「だって、何だ?」
はっちゃんの言葉に唇を尖らせれば、兵助が俺を急かすように問いかけてくる。そして、その隣に座っていた雷蔵まで俺を見てきたものだから、俺は小さくため息を吐き頭をかいた。あまり、言いたくないのに。
「……何か、俺ばっかり嫉妬してる」
「…は、?」
何を言ってるんだお前は、と言いたげなはっちゃんを横目に、俺はまたため息を吐く。だから、言いたくなかったのだ。はっちゃんの向こうでなる程と小さく頷き顔を見合わせる兵助と雷蔵は別にして、どうせはっちゃんには分かって貰えないと分かっていたから。
それに、本当に俺ばかりが嫉妬していると、俺ばかりが千影を好いているのだと、思い知らされるようで。
「それなら、千影を連れ去ってしまえばいい」
「うわ!?」
瞬間、耳元で囁かれた声に俺は肩を揺らしてしまう。そして、ぞくりと悪寒が走った耳を押さえ、誰だと慌てて振り返った先にはつまらなさそうに海を、千影と網問さんを睨みつける三郎がいて、俺はばくばくと騒がしい胸を空いた手でなで下ろした。
「な、んだよ急に…、連れ去れとか、変なこと…」
「…見てて不快なんだ」
「…不快?」
言いながら、三郎ははっちゃんを押しのけて無理やりはっちゃんと俺の間に座り込む。その顔はやはりつまらなさそうだったが、やけに真剣みを帯びているように見えた。
何で三郎が不快なんだ、と首を傾げながら、俺は途中まで着ていた上着を着て、袴に足を通す。やはり体はべたついたが、あまり気にはならなかった。口を開いた三郎が、あまりにも彼らしくないことを呟いたからだ。
「勘右衛門以外の奴が、千影と笑ってるのが不快なんだよ…」
お前、今まで俺に千影がとられるぞとられるぞとからかってただろ。とは言えず、俺は袴の紐を結び、頬をかく。いつもからかってはいたものの、心中では俺と千影を応援していてくれていたということが嫌でもその言葉から理解出来たからだ。
「…祭りの時は笑ってたくせに」
「あの時は勘右衛門が直ぐに男を追い払っただろう」
なのに、今日はどうした。
拗ねたような、責めるような、そんな目で睨み付けられる。しかし俺は直ぐには答えることが出来ず、ただただ苦笑して砂を握りしめるだけだった。砂は、当たり前のように手からこぼれ落ちていく。
「どうしたって、だからさっき言っただろ」
「お前ばかり嫉妬している?」
「…そうだよ」
「だから何だ、嫉妬するなら、嫌なら連れ去ってしまえばいい」
「…何で三郎が苛ついてるんだよ」
やけに早口な三郎に、漸く気付いた。三郎は俺を責めているわけでも、拗ねているわけでもないのだと。雷蔵の焦ったような顔がその証拠だ。
俺に核心を突かれたからか、三郎の唇は何かを言いよどむように真一文字に結ばれる。しかし、次の瞬間には意を決したかのように立ち上がり、俺の腕を掴んでいた。
「な、」
「勘右衛門が行かないなら、私が行く」
「え、な、何言って、」
「私が、千影がどれほどお前を好いているか分からせてやる」
「ちょ、三郎、?」
「お、なんだなんだ、そうきたか」
ずんずんと波打ち際、いや、海へ向かって歩いていく三郎と嬉々として付いて来たはっちゃんに、俺は目を見開く。ぱしゃりと水を蹴った足にいよいよ焦り始めたが、それはもう遅過ぎたらしい。慌てて兵助と雷蔵に助けを求めようと振り返った瞬間には、三郎とはっちゃんの腕が俺を勢い良く持ち上げていたのだから。
「な、何してっ、」
「八左ヱ門、行くぞ!」
「おうよ!」
「っ、ま、」
何をされるのか理解し、待って、と叫ぶよりも早く俺の体は勢い良く放り投げられた。嫌な浮遊感の暫しの間に見えたのは、驚いたような顔をする第三協栄丸さんとしんべヱ、乱太郎の姿。そして、にやりと笑うきり丸と重さん、義丸さんの姿だった。
「か、勘ちゃん!?」
ばしゃん。何処にいようと、何をしていようと聞き逃すはずのない声、千影の声が水音に溶けて、消えて、俺は強く目を閉じながら海面に打ち付けられた背中の痛みを噛み締める。何故だろう、さっきまであんなに気分が沈んでいたはずなのに、千影の声で自身の名を呼ばれたその瞬間、その声にすくい上げられたかのように胸が軽くなるのは。
「っ、は、げほっ…!」
「か、勘ちゃ、大丈夫…!?」
波に流され上手く力の入らない足で立ち、俺は海中から顔を出す。突然のことだったせいか海水を飲み込んでしまっていて、息苦しくて仕方なかった。
だというのに、手はしっかりと千影を探していて、千影の手を掴んでいて。俺は、自身の想いの強さに呆れてしまう。
「勘ちゃん、大丈夫?まだ苦しい?」
「っ、げほっ、…千影、」
「な、なに?背中さすろうか?」
強く手を握りながら、俺は視界の端にうつる彼、にやりと笑う義丸さんに引っ張られていく網問さんを確かめる。ああ、良かった。これで、やっと二人になれた。
「勘ちゃん、?」
「…けほっ、…ううん、いい。良いんだ、平気…」
「…なら、いいんだけど…」
本当に平気?と首を傾げ俺の頬にはりついた髪を摘み退かしてくれる千影に、俺は小さく笑って頷いた。ああ、このまま千影を抱き締めてしまおうか。けれど乱太郎達もいるし、流石に上級生としてそれは。
そんなことを考えていたその瞬間、千影は心底嬉しそうにへらりと笑って、繋いだ手に力を込めてきた。ゆるめられたその頬は、微かに、赤い。
「やっと、二人になれた…」
ずっと海に浸かっていたからか、ひやりと冷えた千影の腕が俺の首に巻き付いてきて、俺は目を見開く。それはあまりに突然で、抱き返す余裕すらも生まれない。手は、水中で宛てもなくさ迷っていた。
「な、千影、」
「…ずっと、勘ちゃんが良いって思ってたんだ」
「へ、」
「網問さんには悪いんだけど、ね、」
勘ちゃんのそばが、一番いい。
へらりと笑いながら俺から離れた千影に、俺は漸く思い出す。千影がどれほど俺を好いているか分からせてやると、三郎が言っていたことを。
「っ、う、うわああああー!」
そして、俺はあまりの恥ずかしさに駆け出してしまう。水の重さも、濡れた砂の重さも忘れ、一目散に。
「か、勘ちゃーん!?」
「お、おい勘右衛門!?」
千影の叫びも、三郎の叫びも無視して俺は走る。相変わらず体は海水のせいでべたついて気持ち悪かったが、それすら気にする間もなかった。
千影の笑顔が、俺への想いが、嬉しくて愛しくて、やはり、恥ずかしかった。
「…尾浜先輩、どうしたんだろ」
「乱太郎、俺達にはまだ早いことだ」
そしてこの後学園で、俺の気持ちを知った上でにやりと笑いながら大丈夫かと問いかけてくる三郎とはっちゃんに唇を噛み締めつつも、心底心配そうに俺の手を握ってくる千影がいたから何も言えないのだった。
それは、千影の想いが確かにそこにあると改めて知った夏のこと。