黎明の月 | ナノ
「か、体が痛い…」
「そりゃあんだけ踊ればな…、いててっ」
「…はっちゃん、凄かったね」
「…忘れてくれませんか」
ばしゃり。菜園に水を撒きながらはっちゃんが引きつった笑みを浮かべながらそう言ったので、私もへらりと笑い返しておいた。
それにしても、楽しかったなあ。そう思いながら、私は晴れた空を見上げる。そして、昨夜のことを思い描こうと目を閉じた。踊りの最中に頻繁に田楽豆腐を食べに輪を抜ける兵助。そんな兵助を捕まえる雷蔵に、そんな雷蔵に何故だか抱きつくはっちゃん。そして、そんなはっちゃんを怒る三郎と、笑いながら三郎を宥める勘ちゃん。今思えば、何故あんなにも気分が高揚していたのか全く分からないほど、楽しかった。
「おーい、千影、水撒き終わったぜ?」
「あ、ごめん、ありがとう」
「いや、かまわねえよ」
じゃ、戻るか。そう言ったはっちゃんに、私は頷き先を歩きはじめるその背中を追い掛けた。そして、私は思う。昨日は沢山楽しんだから、今日はしっかり勉強しよう、と。
「失礼しまーす」
熱気が籠もらないようにか、開け放された襖の敷居を意味もなく飛び越えて、私は図書室に踏み入った。しん、と静まり返った部屋に、時折部屋の奥からぱらぱらと紙を捲る音が響き、誰かがいるのだと理解する。
中在家先輩か、雷蔵か、きり丸か、それとも。そう思いながら足音も立てず無言で音の響いてする方へと歩み寄っていけば、本棚の向こうに座り込む青いそれが二つ見えた。
「あ、久作と三郎次だ」
「うわっ、あ、千影先輩っ…」
「お、驚かさないでくださいよ…!」
「あはは、ごめんごめん」
突然発した声に驚いたらしい久作と三郎次が、目を見開き私を振り返った。そして、私は小さく苦笑しながら二人の手にあったもの、忍たまの友を覗き込む。そうか、この二人は二年生だからもう夏休みは終わったいたんだった。
「二人で勉強?」
「はい。…千影先輩はどうしたんですか?」
「私?…何だと思う?」
「千影先輩も勉強、でしょう?」
久作の問いにへらりと笑って問いで返してみれば、三郎次の得意げな笑みが返ってきて、私は思わず頬をかく。なんだ、分かっていたのか。
「あ、なら千影先輩、勉強ついでに一緒に考えてくれませんか?」
「え?何を?」
ぱ、と何かを思いついたように顔を上げた久作に、私は首を傾げる。すると久作は手にしていた忍たまの友を私にも見えるように広げてきたので、私はそれがよく見えるように二人の前にまわりそこに座り込んだ。広げられたそこには、以下を忘るべからず、と書いてある。
「地図の道筋を指でなぞるべからず…?」
「はい。今日、明日の実習で向かう目的地を地図で確認していたら野村先生に怒られてしまって…」
「それで忍たまの友で理由を確認してたんですが、何故いけないのか分からないんです」
久作の言葉に、三郎次が続く。そして私は、再び首を傾げた。してはいけないと書かれているからには何か理由があるのだろうが、それが何故なのか私にもさっぱり分からない。
ううん、と三人で首を傾げ、必死に当てはまりそうな理由を頭の中から探してみる。しかし、それはなかなか見つからなかった。
「んんー…、ねえ、授業で習ったことはあるの?」
「…多分、あるんですよ。この頁は前に習ったはずなので…」
でも、思い出せないんですよね。そう言って頭を抱えた久作に、私は苦笑する。三郎次は無理やりにでも思い出そうとしているのだろうか、久作の隣で自身のこめかみを何度も叩いていた。
習ったことがあるなら、私が適当に思い当たる理由を言っていけばいつか思い出してくれるだろう。そう思い、私は頭に思い浮かんだ最もらしい理由を口にした。
「指紋、つくからじゃないかな?」
「…指紋、?」
「うん、指紋。久作と三郎次は、目的地を指差して怒られたんだよね?」
首を傾げた三郎次に、私は確かめるように問うてみる。私が言いたいことが未だ分からないらしい二人は不思議そうに目を丸くしながらも、小さく頷いた。
「あのね、もしも地図を落としたとするでしょう?で、それを敵の忍が拾ったとする」
「敵が…、…あ!」
「え、久作、分かったのか?」
目を丸くして久作を振り返った三郎次に、久作は大きく頷いた。思い出した!と言いながら。
「そうですよ千影先輩、それです!」
「え、あ、合ってたの!?」
「はい、合ってます!」
まさか自身の考えが合っていたとは思わなかったため、私は思わず目を見開いてしまう。しかし久作はそんな私を気に止めることもなく、忍たまの友を床に置き三郎次を振り返った。三郎次はやはりまだ分からないのか、不思議そうに目を丸くしている。
「ほら、千影先輩が言ったみたいに指で目的地を辿ったら、指紋が残る。それを敵が拾ったら、どうなる?」
「どうなるって、指紋が残ってるから目的地が…、あ!」
久作の言葉に、三郎次は漸く思い出したのか目を見開いて手を叩いた。その顔は、私が今までで見た三郎次の表情の中で一番輝いていた。
「そうか、敵に目的地が気付かれて、忍務が遂行出来なくなるかもしれない!」
「そう、そうだよ!良かったー思い出せて!」
ぱん、と嬉しそうに手を合わせた三郎次と久作に、合ってて良かった、と私も胸を撫で下ろす。そして、二人の笑顔を見てゆるんだ頬に気付き、私はそれを誤魔化すように自身の頬を両の手で押さえた。
瞬間、三郎次と久作が勢いよく振り返り、私は思わず肩をゆらす。二人の表情は、やけに眩しかった。
「千影先輩、ありがとうございます!」
「助かりました!ありがとうございます!」
「ど、どういたしまして…」
余程嬉しかったのだろう。久作は兎も角、いつも意地悪ばかりだと一年は組の子供達が言っていた三郎次まで素直に礼を口にしたものだから、私は目を丸くしてしまう。
しかし二人はそんな私に気付かず、驚きのあまり宙をさ迷っていた私の手をがしりと掴んできた。二人の視線は、やけに熱い。
「お礼に、僕達がみっちり千影先輩に勉強を教えてあげます!」
「え、ちょ、三郎次さん、みっちりは流石に…」
「ささ、千影先輩、机の前に」
「いやいや、久作さん、私は一人で…」
このままではまずい、逃げられない、みっちり叩き込まれてしまう。勉強をする為に来たとはいえ、みっちり、とまでは考えていなかった私は慌てて首を横に振る。しかし、二人は聞く耳すら持ってくれなかった。
三郎次に無理やり机の前に座らされ、久作のお勧めらしい小難しそうな本が机にどさりと何冊も置かれ、私は笑う。それは、諦めの笑みだった。
「さ、みっちりやりましょう」
「夜まで付き合いますよ!」
三郎次のみっちり、久作の夜までという言葉に、泣きたくなった。瞬間、けたたましく鳴きだした蝉の声はきっと、私の代わりに泣いてくれたものだろう。
そして、言葉通りのみっちり夜まで続いた勉強は、私が部屋に戻っていないことに気付いた勘ちゃんが駆け込んでくるまで続くのだった。