黎明の月 | ナノ
※このお話は黎明×BASARAというまさかのクロスオーバーです。
「……これは…困ったことに…なりました…」
ひゅるりと冬とも秋とも区別のつかぬ肌寒い風が、ほんの少し開いた襖の隙間から吹き込んでくる。その冷たさを一身に感じながら、私は床に広げた銭を見て、襖の隙間から庭を見て、それからもう一度銭を見て、庭を見た。くノたま長屋の前に広がる庭の木に何時もならいる筈の千太郎の姿が、今はない。それもそうだ、彼は今、来たる冬を前にその寒さに耐えるべくむくむくとその身を太らせている最中の獣達を、虎視眈々と狙い捕食する毎日を送っているのだから。そして、山犬達も然り。
それで良いのだ。冬が来れば、獲物は減ってしまう。だから冬が来るまでに他の獣達と同じようにその身を太らせなければならないのだ。
しかし、彼らがいない今、私は町で興行をすることが出来ない。つまり、冬を越すだけの銭がない。冬を、越せない。これでは、冬を越せない。
「…き、きり丸ー!」
床に広げた銭もそのままに、私は勢い良く襖を開けて部屋を飛び出す。勘だけを頼りに廊下を走り抜け、時折ぶつかりそうになる生徒を紙一重でかわしながら先を急いだ。途中すれ違った勘ちゃんと雷蔵が驚きながらも何故だか頑張って、と声援をおくってくれたことには思わず足を止めて振り返りそうになったが、私はそれでも足を止めなかった。
思い付くまま走り続けていれば、視界の先に図書室が見えて、私は飛びつくように図書室の襖に手を伸ばす。ぱしん、と勢い良く襖を滑らせると目を見開いて此方を振り返る久作と怪士丸がいて、私は二人に駆け寄りながら口を開いた。
「き、きり丸!きり丸いる!?」
「き、きり丸なら、そこに、」
「はーい、呼びましたか?あ、やっぱり千影先輩だ。どうしたんっすか、そんなに慌てて」
「っ…きり丸っ…!」
目を見開いたまま久作が指差した方に目をやれば、本を両腕に抱え込んだきり丸が棚の影からひょっこりと姿を現した。不思議そうに首を傾げながら近付いてくる彼に、私はたまらず飛び付いた。
「わっ!?な、なんっすか!?え、千影先輩!?」
「ふ、冬が越せない…!冬が越せないよきり丸…!」
「へ?……あ、千影先輩、まさか銭が…。…町で興行は?」
「…千太郎も山犬達も、冬を越す準備中ですっ…」
「ぐえっ」
床に膝をつき、ぎゅう、ときり丸にしがみつきながら私がそう言えば、きり丸は苦しそうに呻き声を上げて手をばたつかせた。それを見た久作と怪士丸に千影先輩、と肩を叩かれ、私は慌てて手を離しその場に座り込む。きり丸はけほ、と一度咳をして、困った顔をして私を見る。
「うーん…、何処かの商いを手伝うにしても……千影先輩、得意なことって何ですか?」
「……ち、力仕事、とか、商いには…」
「運び込みなんかはあまり手伝わせてくれないんっすよね、店先に立って売り子をするとかなら雇ってもらい易いんですけど…」
千影先輩が、売り子…。
きり丸がそう呟いて、私を見る。それから久作と怪士丸が顔を見合わせて、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「…千影先輩がやったら…、人は来るだろうけど…」
「ついでに鉢屋先輩とか七松先輩が集まってきそうだし」
「それに、三治郎達も絶対来るっすね!」
見世物屋ならまだしも、普通の店でそれは拙い。
三人が口を揃えてそう言ったので、私は思わず口元をひきつらせた。それでは結局、私には銭を稼ぐ手段がない、ということじゃないか。
「…何処かに良い仕事、ないかな…」
はあ、と溜め息をついて、私は俯く。視界の端で三人が困ったように顔を見合わせて私に何か言葉をかけようとしていたのが分かったが、今の私にはそんな彼らに大丈夫だと笑ってみせる気力もない。当たり前だ、このままではまさにお先真っ暗なのだから。
寒さを凌ぐだけの防寒着もなければ、授業料を払うだけの銭もない。銭を稼ごうにも、仕事がない。それならいっそ、冬の間だけ何処かの山へ籠もって春に学園に帰って来れば、
「大丈夫だよ、千影。仕事、あるから」
そんなことを考えていた、その時だった。
ぽん、と軽く肩を叩かれ、私はゆっくりと振り返る。するとそこには先程廊下ですれ違った勘ちゃんと雷蔵がいて、私は目を丸くする。勘ちゃんはただただ、私の肩に手を置いたまま、いつものように優しく笑っていた。
「か、勘ちゃん…、仕事って、」
「まあ、仕事って言うより忍務って言うのかな?な、雷蔵」
「そうだね、何て言ったって学園長先生の頼みだし」
「…が、学園長先生の…?」
「そ。ほら、これ見て。さっき学園長先生が手当たり次第に渡してたんだ」
はい、と勘ちゃんが笑いながら差し出してきたものは少し皺の寄った半紙で、私はそれを受け取り視線をおろす。えらく達筆なそれで書かれた文字は私に解読することは出来ず、思わず首を傾げそうになった私に気付いてか、きり丸が私の肩に顎を乗せて半紙を覗き込んできた。
「えー…、…何か難しいことが書いてますが、学園長先生の知り合いが、子守りを頼んできたみたいっすね」
「こ、子守り…?」
「あ、これ先着一名らしいっすよ」
「そうそう。でもどうせ誰もこんなの受けないから慌てなくても、」
「わ、私学園長先生に会いに行ってくるね!ありがとうみんな!」
きり丸の言葉を聞いて、私は弾かれるように立ち上がる。勘ちゃんが何か言っていた気がしたが、これを逃しては冬を越せない私にそこまで気を回す余裕はなかった。
慌てて図書室を飛び出し、肌寒い廊下を走る。千影先輩、ときり丸が私を呼ぶ声が聞こえたのは、私が廊下の角を曲がってからのことだった。
「あー…行っちゃいましたね…」
「…武家の子の子守りなんて、誰もいかないんだからあんなに慌てなくても、ね、雷蔵」
「んー、まあ、千影ちゃんだし」
「……雷蔵先輩、てきと、」
「しっ、怪士丸、黙ってろ」
ざく。獣道に積もる落ち葉を踏み鳴らしながら、私は眼下にある屋敷を見渡す。それから懐から文を出し、それを確かめる。学園長先生の流れるような文字は私には読めないが、これを渡す相手はきっと読めるのだろう。未だ目にしていないその人を頭に浮かべて、私は歩を進めた。
「いやあ、良かった良かった。儂の古い友人が政のため暫く館を留守にするのでな、忍を一人貸してくれと文を寄越したのじゃよ。なあに、案ずるな。十の男の子を一人面倒見るだけじゃ。千影になら出来るじゃろ。それに、お前一人ではない。屋敷には他の忍もおるからのお」
これを機に、しっかり学んで来なさい。
学園長先生の言葉が頭の中をまわっているうちに、私は山を下りきり館の表へと回っていた。どうやら私は館の裏山から来ていたらしく、目の前にある館の向こうに私が先程下ってきた山が見え、無駄に歩いてしまったことに内心溜め息を吐く。
後ろを振り返れば、少し離れた場所から町が広がっている。大きな通りを中心に広がるそれは平和そのもので、風にのって人々の笑い声が聞こえてきた。どうやらこの館の主、学園長先生の古い友人である武田信玄というその人の収めるこの国は、この笑い声を背負える程の人物らしい。
「……城みたいな館だなあ…」
外堀にぐるっと囲まれた大きな館を前に、私は今更ながら気圧される。一国の主の頼みを、本当に私なんかが受けて良かったのだろうか。例え三治郎達と変わらぬ子供の守りだとしても、私が思っていた以上に責任は大きいのではないだろうか。
しくじって機嫌を損ねてしまうことがあれば、私は一体。
「ま、まさか首をっ…!……………ん……?」
ぶるりと体を震わせた瞬間、ちくりとした視線を感じ、私は思わず身構える。辺りを視線だけ動かして見回すが、そこにあるのは館の塀だけ。
誰かが、塀の向こうから私を見ている。
「あんた、何の用?」
それに気付いた瞬間、夕陽に染まる空と同じ色をした髪を持つ男が塀の向こうから飛び出してきて、私は慌てて一歩下がった。私の目の前に降り立った男は、私よりも三つ四つ年上だろうか。じい、と少し上から私を見下ろしてきて、思わず眉を寄せた。
「…城下の人間じゃないね。あんた、何処から来たの?此処が躑躅ヶ崎館だって、分かってて来たの?」
「……分かって、ます、よ。…あ、そうだ文を、」
「あれ、城下の匂いがしないな。あんた、何処を通ってきたのさ」
「裏の山からですけど…、あの、文、」
「は?山?え、あんたあの山越えてきたの?え、本気で?あんた何者?」
「あ、だから文を、」
「まさかあんた、お館様を狙って…!」
「や、だから、文を、持って来ましたあー!」
じろじろと顔を覗き込んできたかと思えば、驚いたように目を見開いたり、怪訝そうな顔をしたり、全く私の話を聞かない彼にいい加減腹が立ち、私はとうとう大声をあげて目の前にあったその顔に文を叩きつける。
ぶ、と吹き出しながら文を受け取った彼に構わず、私は腕を組み彼から距離をとった。いてて、と鼻をさする彼を睨めば、彼は漸く文に視線をおろし、ああ、と頷いた。
「成る程ねえ、あんたがお館様の言ってた大川さんとやらの…」
「…千影です」
「ふうん、千影、ね」
文を一瞥し、彼はそのままそれを懐に直し、確かめるように私の顔を見た。ぐ、と近付けられた彼の端正な顔に、これが勘ちゃんならな、と考える。
「……俺、これでも女の子に好まれる顔をしてる筈なんだけど…」
ぼそり、そう呟いて、彼は首を傾げながらゆっくりと離れた。
一体何を言っているのだろう。確かに彼は端正な顔をしているとは思うが、今の行動で何故首を傾げるに至ったのか分からない。
そんなことを考えていれば、彼が小さくまあいいやと呟いて不満げに歩き出したので、私は彼について行けば良いのだろうかと疑問に思いつつ彼を追いかける。そしてそれは正解だったらしい。門をくぐってもなお、彼は何も言ってこなかった。
「…それにしても、ちょっと拙いかも」
「え?」
「一応訊いておくけど、あんた、女だよね?」
館の敷地を歩きながら振り返った彼に、私は目を見開く。すると彼は歩みを止めて、苦笑しながら頭をかいた。
「いや、男に見えるとかじゃないからね?どう見ても女に見えるから、訊いたの」
「…女、ですけど、…何か問題があるんですか…?」
私が問えば、彼は少しの間をあけて、ぐるりと辺りを見回した。それにつられて私も辺りを見回してみれば、彼は何食わぬ顔をして私の隣に寄り添うように立ち、肩を抱いてくる。
「え、何ですか急に」
「わあ、そんな冷めた反応初めて。かすがでも照れるのに」
「…いや、別に照れませんが」
普段彼より端正な顔をした孫兵に抱きつかれたり頬を寄せられたりしているのだから、何を今更照れることがあるのだろうか。ただ、戸惑いはするが。
彼を見つめたままそんなことを考えていれば、彼は微かに笑って、ねえ、と私から目を逸らし前方を指差した。何かを企むように笑う彼の横顔から其方へと目をやれば、微かに足音が聞こえてくる。ばたばたと騒がしい、何処かで聞いたことのある、それ。
「さあすけぇえええっ!お館様が、お館様が、しばらくこの館を留守にするとぉおうおおおっ!」
「こーら、弁丸の旦那、廊下は走らない」
「しかし、しかししかししかしっ!ぅおやっかたっさまがあっ!」
ああ、そうだ。少し声が大き過ぎるが、三治郎や虎若、一年生達が駆けてくる足音に似ているんだ。
私達の立っている敷地に面した吹き抜けの廊下を、赤い袴をはいた男の子が駆けてくる。弁丸の旦那、と呼ばれた彼はしかししかしと繰り返し、涙をこらえて勢いよく此方を見た。瞬間、上げられた顔は驚きに染まり、固まってしまう。彼の目は、くるりと丸くなっていた。
「…さっ、さす、け…」
「ん?どうしたの旦那」
「は、はっ、」
涙がひいて、顔が歪んで。私達を見る小さな彼の顔が、瞬く間に色を変えていく。今や秋の色にも負けぬほどに赤く染まったその顔は、私を戸惑わせるには充分過ぎるものだった。
「はっ、破廉恥でござるぁあああっ!」
そして、その叫びもまた。
きん、と耳の奥が揺れて、一瞬頭がくらりとした。慌てて気を取り直した頃には小さな彼は逃げるように走り去っていて、私はぽんぽんと手のひらで耳を軽く叩きながら遠ざかっていくその背中を見やる。赤い袴はよく見えて、廊下の角を曲がるまで私はぼんやりと彼を眺めていた。そして彼は私に見られていることを知ってか知らずか、お館様、と叫び、それから再度今し方叫んだ不思議な言葉を繰り返していた。
はて、はれんち、とは一体どういう意味なのだろうか。
「…すみません、はれんちって…?」
「淫らってこと。見ての通り、あの子、女の子関係がてんで駄目なんだよねー」
「み、だら…?」
「過度な露出なんか見たらもう大変、ぶっ倒れるか今みたいに逃げるかだし、男女が寄り添って歩いてたりなんかしても今みたいな感じだし」
はれんちやらみだらの意味はよく分からないが、つまり、彼は私達が今しているように男女が肩を寄せていたり、女が肌を出しているのを見るのが苦手、ということだろうか。未だ私の肩を抱く彼の言葉を頭の中で繰り返し、私は全て分かったふりをして頷く。
そして、私は直ぐ隣にある端正な顔を振り返る。あれ、まさか。
「……あの、私、今回確か子守りをするために…」
「うん、今の子のね。名前は弁丸様。あ、そうそう、俺は猿飛佐助ね。佐助って呼んで」
「あ、はい、弁丸様と、佐助さん。…で、弁丸様は、女は得意でない、と?」
彼、佐助さんの手をゆっくりと退けながら問いかければ、佐助さんは薄く唇を伸ばして私を見やる。弧を描いたそれに思わず引きつった笑みを返せば、佐助さんは嫌な笑みを浮かべたまま私の背中を叩いた。
「だから言ったでしょ。ちょっと、拙いかも」
にい、と笑って歩き出した佐助さんの背中を追わず、私はその場に立ち尽くす。
お館様、と叫ぶ声が、風に乗って館に響き渡った。