黎明の月 | ナノ
勘ちゃんが理性を保つ話。
「お、勘右衛門見ろ、今日の千影はやたらと機嫌が良いみたいだぞ」
「え?」
それは、授業も終えて夕飯をとろうと食堂へと向かう道すがらのことだった。
ほら、と隣を歩いていた三郎に肩を叩かれて、くう、と情けない音を鳴らす腹をさすりながら三郎の視線の先を追う。するとそこには同じく授業を終えたのであろう、酷く楽しそうにけらけらと笑いながらしんべヱを肩車し、両の腕にきり丸と乱太郎を抱いて団蔵達に追いかけられる千影がいて、俺は大きく瞬きをした。
「相変わらず騒がしい奴だな。お前の想い人は。大変じゃないか?」
「…なに?からかってるつもり?三郎、混ざりたいんだろ」
「なっ、べ、別に混ざりたいなんて思ってないぞ!」
「ふうん、そう?顔、赤いけど?」
にやりと笑ってわざとらしく目を細めれば、三郎は分かりやすく俺から目を逸らし、早く行くぞ!と叫ぶように言って食堂へと歩き出す。それが可笑しくてつい笑えば、早くしろよ!と照れを隠せない怒号が飛んできたので、分かったよ、と軽く受け流しながら三郎の後を追いかける。
しかし、それにしても。
「ずるいぞしんべヱ!早く代われよー!」
「乱太郎ときり丸も!僕達だって抱っこされたいのに!」
ひらりと舞うようにしんべヱ達ごと木にのぼった千影を見上げながら、団蔵と伊助が頬を膨らます。少し離れた場所から庄左ヱ門が可笑しそうにお腹を抱えて笑っていて、珍しいな、と思った。
それ以上に、何かが外れたようにけらけらと笑ってしんべヱ達を下ろさない千影が、珍しいな、と思った。
「……何か、おかしいな…」
いつもなら少し困ったように笑いながら、じゃあ次は団蔵達ね、と彼等を抱き上げるのに。
ううん、と唸りながら首を傾げ、木の上から降りてこない千影を見やる。夕陽に照らされるその顔は赤くて、眩しくて、目を細めた。
「何だ、お前はまた千影を見ているのか」
「うわっ!?っ、な、七松先輩…驚かさないでくださいよっ…」
「ん?ははっ!すまん!」
その時だった。突然後ろから肩を叩かれて、楽しそうな笑い声が響いたのは。
跳ねた胸を押さえて、呆れの混じるため息を吐き出せば、七松先輩は悪びれもせず俺の隣に並び、先程まで俺がそうしていたように千影を見やる。三郎は、と振り返ったが、もう食堂に行ってしまったのだろう。振り返ったそこに、三郎の姿も気配も無かった。
「俺、そんなに千影のこと見てました?」
「ああ、見てた。お前はいつも千影を見ている」
「い、いつも、ですか」
七松先輩の言葉に、授業中の教室の窓から千影を見つめる俺が容易に想像出来て、少しだけ恥ずかしくなる。自分でも気付かない間に千影を見つめていて、それを他人に指摘されるなんて。
「良いな、お前達は冷めることがなくて」
「は、はあ…」
「やはり、具合も良いからだろうな!」
「はあ…、…え?」
熱くなった頬を誤魔化すように口元を押さえていれば、不意に七松先輩が此方を振り返ってそんなことを言い出す。具合?と一度頭で繰り返して、そして七松先輩の目を見た。
途端に、さらに頬が熱くなって、血が体中を勢いよく巡りだす。
「な、な、なにっ、言ってるんですか!」
「ん?なんだ、まだだったのか?」
「まっ、まだに決まってますよ!」
「なははは!そうか!悪い、てっきり、な!」
悪い、と言いながらもばしんばしんと勢いよく背中を叩かれて、俺は痛みに耐えながら七松先輩を睨みつける。突然何を言い出すかと思ったら、まったくこの先輩ときたら。
楽しそうに笑う七松先輩から目を逸らして、千影を見やる。未だ木の上で下にいる団蔵達を見下ろす千影を、今は見つめることも出来なかった。
「お?なんだ、何処か行くのか?」
「ほ、放っておいてください!」
「なはは!そう怒るなって!」
おーい、と後ろから七松先輩が俺を呼ぶ声を無視して、三郎がいるであろう食堂へと急ぐ。とてもじゃないが、今は千影を見ていられなかった。
閨事なんて、まだ早い。早いに、決まってる。
「…おーい、勘右衛門さーん」
「……………」
「……駄目だ雷蔵、勘右衛門が壊れた」
「三郎、あんまりしつこくつつかない」
三郎と二人で夕飯を終えて、たまたま廊下で出会った雷蔵と共に長屋へと歩く。三郎の声も雷蔵の声もしっかりと聞こえていたが、今はそれに応える余裕も無かった。
ぼんやりと、そういえば千影とは手を繋いで、抱き締めたことしかなかったような、と今までのことを振り返る。抱き締めて、額に唇を寄せたことはあれど、それだけだ。夫婦事のようなことなんて、それ以上はしていないし、それですらたった一度きり。確か、想いを告げたあの日だけ。
「……男として、どうなんだろう」
「…雷蔵、勘右衛門が…」
「しい。放っておいてあげなってば」
ぴたりと歩みを止めて、床を見つめる。七松先輩は、具合は良いのか、と聞いてくるほどだ。きっと色町なんかに行って、欲を吐き出してきているのだろう。いや、もしかすると七松先輩はあれでいて誠実そうだから、まだ誰ともしていないかもしれない。なら、俺も別にまだ。
そこまで考えて、ふと気付く。あれ?何でこんなことを考えてるんだろう、と。
「……別に、焦らなくたって良いんじゃ、」
だって俺は、千影がただ好きなだけなのだから。焦って手を出す必要なんて、何処にもない。
「…なーんだ、そっか、そうだよね、うん、全然気にすることなんてなかった!」
「……雷蔵」
「三郎、しい」
一歩後ろを歩く二人に構わず、途端に軽くなった胸に上機嫌になりながら軽い足取りで廊下を歩く。一瞬でも気にしてしまった自分が馬鹿らしくて、どうしようもなく千影に会いたくなった。勿論、そんなことをしたいわけではなく、ただ、千影に会いに。
それならば会いに行くしかない。そう思って、千影に会いに行くことを後ろを歩いていた二人に告げようと振り返った時だった。三郎と雷蔵の肩越しに、どこかふわふわとした足取りで歩く彼女、千影が見えたのは。
「千影っ」
「へ?あ、勘ちゃん」
「ん?千影?」
「あ、千影ちゃんだ」
俺と千影の目が合ったと同時に二人も千影の存在に気付き、誰からともなく千影のもとへ駆け寄る。もう夕飯食べたの?なんて呑気に笑う千影は、きっと俺が今千影のことを考えていたなんて思いもしないだろう。
「夕飯なら食べたよ。千影は?」
「んー、私は今から。えへへ」
「……千影?」
へらりと力の抜ける笑みを浮かべた千影に、木の上でけらけらと笑っていた千影を思い出す。やけに機嫌の良い千影を不思議に思ったのは俺だけじゃなかったらしく、思わず二人に目をやれば、怪訝そうな顔をした二人と目が合った。
「…千影、もしかして、」
「んー?」
まさか、と思い、千影の手をとり引き寄せようとして、目を見開いた。千影の手が、酷く熱く感じたから。
「どれ、……おい、酷い熱だぞ、これは」
「あ、おい、なに千影の額に勝手に、」
「なにって、熱を計ろうと、」
「あははっ、三郎の額冷たーい」
「わ、いっ、…お前なあ」
「…千影ちゃん、熱が出ると元気が空回りするんだね…」
どれ、と言いながら千影の額に自身の額を当てた三郎にむっと眉を寄せれば、千影はけらけらと笑いながら三郎の額を叩く。そんな千影を困ったように笑う雷蔵に、俺も思わず苦笑いした。これじゃあきっと、俺が今眉を寄せた理由すら分かっていない。
ふう、と息を吐いて、握っていた千影の手を引いて千影に背中を向ける。医務室まで負ぶって行かなくては、と思ったのだ。
「ほら、千影乗って」
「え?あははっ、私が負ぶってあげるよ」
「それだけは止めて泣いちゃうから。…ほら、乗って?」
「うーん…、うんっ」
一瞬渋って、それでも大きく頷いて背中にもたれかかってきた千影の体が熱くて、今更ながら心配になってきた。こんなに熱があるというのに、しんべヱ達を肩車し、乱太郎ときり丸を抱いて走っていたなんて。
とんでもない女の子だな、と笑いながら立ち上がり、千影が落ちないよう後ろで腕を組む。すると千影は俺の肩に顎を乗せて、何が可笑しいのかふふふと小さく笑った。
「…千影、大丈夫か?」
「三郎よりは大丈夫」
「真顔で言ったなお前」
「まあまあ三郎、落ち着いて。勘ちゃん、よろしくね。熱が引いたらお見舞いに行くから」
「うん、分かった」
何も言わずとも医務室へ向かうことが分かっていたらしく、三郎の肩を押さえる雷蔵に促されるように俺は医務室へと歩き出す。千影は分かっていないのか、俺の首筋に頭を寄せてまた小さく笑っていた。
「千影、辛くない?頭は?痛くない?」
「うん?なんで?」
「なんでも」
「あははっ、大丈夫だよ。でも、少し頭がふわふわするかなあ」
少しどころじゃないだろ。心の中でそれだけ呟いて、廊下の角を曲がる。途中ですれ違った田村や能勢、今福が千影を負ぶる俺を不思議に思ってか話し掛けに来ようとしたが、千影がいつもと様子が違うことに気付いたのか、話し掛けては来なかった。多分、明日の医務室は混むだろうが。
「千影、明日は沢山お見舞いが来るよ」
「うん、…うん?誰の?」
「ははっ、もう誰のでも良いよ。はい、医務室に到着ー。…あれ?」
右手で千影が落ちないように支えながら、左手で医務室の襖を引く。しかし、そこには誰もおらず、俺の声が虚しく響いただけ。
おかしいな、誰も医務室にいないなんて。そう思いながらも医務室に入り、そして机の上に置かれた一枚の紙に気付いた。
「…あちゃー…」
厠の紙の点検に行っています。善法寺伊作。
「…これは帰ってこれないな…」
「勘ちゃん、何見てるの?」
「ん?いや、不運委員会は一人で行動しちゃいけないなと思って」
「あはははっ、そうだねえ」
仕方がない。せめて新野先生を呼びに行くか。
間延びした話し方をする千影をとりあえず布団に寝かせようと部屋の隅に敷かれっぱなしになっていたそれに歩み寄り、よ、と声を上げながら千影を下ろす。すると千影は直ぐに布団の上にごろりと転がって、仰向けになりながらへらりと笑って布団の脇に座った俺を見てきた。
きっと、千影自身気付いていなくとも、体は辛かったのだろう。寝転がったまま起き上がろうとしないのは、辛いからに違いない。
「千影、新野先生呼んでくるね」
「うん、うん?」
「……分かってないけど、まあ良いか。大人しく寝ててね?」
じゃあ、呼んでくるから。
そう言って、立ち上がろうとした瞬間だった。
「だーめ」
「わっ、!?」
千影の腕が、俺の手を勢いよく引いたのは。
「行っちゃ駄目だよ、勘ちゃん」
「え、…え、?」
猫のような瞳が、俺を見つめる。悪戯に細められたそれに映る俺の顔はあからさまに戸惑っていて、自然と頬が熱くなる。
突然手を引かれたせいもあったが、それ以上に千影の力が強くて、千影に被さるように四つん這いに成らざる他なかった。そして、慌てて退けようにも、
「ちょ、千影、離しっ…!」
「いーやー」
千影の足が俺を逃がすまいと物凄い力で俺の腰を挟んでいたから。
あまりの力強さに、冷や汗が出る。おかしい。千影は確か熱があるはずで、俺はそんな千影を医務室に連れてきたはずで、俺が腰を負傷しに来たわけではないはずで。
「い、痛い痛い痛い、ちょ、え、何これおかしい、何これ」
「あれ?痛かった?ごめん」
痛い、と訴えればそれに気付いた千影が直ぐに足を離し、ごめんねと俺の頬に触れてきた。
一瞬、胸が高鳴る。息をするのを忘れて、千影を見つめていた。
「勘ちゃん、行っちゃ駄目」
流れるような動きで首に回された腕にも、何も出来なかった。
「ん?なんだ、まだだったのか?」
やりたくないと、思ったわけではない。そういうことを、考えたことがなかったわけでもない。
暑ければ何食わぬ顔をして上着を脱いでしまうし、水に入るときだって躊躇をしない。日に照らされた千影はいつだって眩しいし、誰よりも綺麗な体をしていることだって知っている。いつもへらりと笑ってしんべヱを軽々と抱き上げてしまうほどの力を持っていても、背中に乗せた彼女は、女の子だった。
「勘ちゃん、かーんちゃん」
「…千影」
千影の手が背中を撫でてきて、猫のような瞳が俺を見つめる。体が熱くなって、手は自然と千影の頬に触れる。
「勘ちゃん、好きー」
やばい、と思った。このままじゃ、焦らなくていいことを焦ってしまう。
なのに、何故こんな時に限って千影はいつも以上に可愛いのか。それでいて、挑発的な目をするのか。
「…お、落ち着け、俺、落ち着くんだっ…!」
「勘ちゃん勘ちゃーん、好きー」
「わ、分かったから、千影、お願い止めて」
「好き」
「止めてください…!」
思わず千影の口を手で塞いで、止めてくれと懇願する。情けないだろう。みっともないだろう。それでも、そうするしか無かった。今はまだ、その時ではないことは確かだったから。
だと、いうのに。
「っ、わ、な、千影っ…!?」
「えへ」
「な、今、手を、か、噛みっ…!?」
かぷ、とまるで犬が主人に構ってくれと訴えるように手を甘噛みされて、俺は弾かれるように千影の口から手を退ける。千影はやはり熱のせいで正しい判断が出来ないのだろう。へらりと楽しそうに笑って、俺を見ていた。
そう、判断力が低下しているに決まってる。そうじゃなきゃ、困る。
「勘ちゃん、好きだよ」
舌なめずりなんかして、一体どういうつもり。
気付けば俺の顔は千影のすぐそばにあって、ふわりと千影の息遣いが届く。睫毛に触れれば千影は擽ったそうに目をきつく閉じて、唇で弧を描いた。
今直ぐに、何でも出来てしまうこの状況が、胸を騒がせた。
「千影、俺、千影のこと、本当に好きだよ」
だけど、好きだから。世界で一番、きっと、俺自身よりも大切だから。今は、まだだ。
「千影は?本当に俺のこと好き?」
背中に回されていた手をとって、握りしめる。熱いそれは微かに汗ばんでいて、少しだけまた胸が高鳴った。
「うん。勘ちゃんのこと、愛してる」
だけど、あんまり嬉しそうに千影が笑うから。
嬉しくて仕方のないこの気持ちをどうすれば良いのだろう。誤魔化すようにそっかと笑って、千影の手を離した。すると千影も満足したのか、背中に残っていたもう片方の手をおろして、うん、と頷く。
「…俺、新野先生呼んでくるから。ちゃんと待っててね?」
「はーい」
先程までのことがまるで無かったかのように行ってらっしゃいと呑気に手を振る千影に小さく笑いかけて、立ち上がる。医務室から出る瞬間に振り返った千影は、未だに俺に向かって手を振っていたので思わず振り返した。
「行ってらっしゃい」
「ははっ、行ってきます」
ぱしん。襖を後ろ手で閉めて、いつの間にか暗くなった空を見上げる。
「っ、ぷはー…!」
そして、そのままその場にしゃがみ込み、大きく息を吐く。心臓が馬鹿みたいにうるさくて、体中が熱かった。
「あっぶなかった…!」
なに、あの可愛い生き物。俺、一瞬食べられるんじゃないかと思ったんだけど。
今になって手が汗ばんで、恥ずかしさが込み上げてくる。普段からあっけらかんとした顔で恥ずかしいことを言ってくる千影だったが、今日のは流石に、きた。
「…俺ばっかり焦ってるんだもん。参っちゃうよなー…」
はあ、とため息を吐いて、頭をかく。しゃがみ込んで見上げる空にはぽっかりと月が浮かんでいて、千影に見せてやりたいな、と思った。そして、今もまた千影のことを考える自分に呆れた。
本当に、参ってしまう。いつまで理性がもつのか、分かったもんじゃないのだから。
「…よし、新野先生を呼びに行くか」
勢いをつけて立ち上がり、緊張して凝り固まった肩を回して歩き出す。頭には相変わらず千影のことが浮かんでいたが、もうどうだって良かった。
「なあなあ千影、お前まだやってないんだって?」
「はい?何がですか?」
「何って、閨ご、」
「こら!小平太!千影ちゃんにそんなこと言わない!」
次の日、朝になって無事に医務室に戻ってきた善法寺先輩が千影を見舞いに来た七松先輩を叱っているのを見て、意地でも七松先輩がいる間は耐えてやる、そう思った。